151.進む後悔を掴む
こう言っては申し訳ないが、何事も淡々とこなす兄を知っていると、およそ似つかわしくない単語だ。
「愛……愛って、あの愛ですか?」
「その愛だが。お前はどんな愛を連想したんだ」
「え、あ、いや……」
なにせいつ頃からか、滅多に笑わなくなった兄だ。
人付き合いが悪いわけではない。
友人はヤーシャより多いし、女性にもてるし、家族の生まれた日は忘れずにお祝いしてくれるし、さらには飲み友も多い。亡くなった腹違いの兄や叔父とも仲が良かった。人相と淡泊な反応に反し人間関係はまさに順風満帆。だが「愛」という言葉だけはどうにも縁が浮かばない。兄弟の母以外の人間は皆、そういうだろうという確信がある。
弟の反応に嘆息を吐いたシグムントは「まったく」と視線を流す。
「先の争いだが、私は叔父上達に、父上の弑逆計画に参画するよう誘われていた」
「は?」
初耳だ。
この二人の反逆は誰もが寝耳に水だったのだ。
そのせいで国は大いに荒れたし、外部の人間から見えないところで膿が流れ続けている。
父ヤロスラフが政から目を背けたのも、誰よりも信頼していた二人に裏切られたからだ。
父は玉座に固執していたのではない。
ただ息子の重荷にならない時期を計って譲位を考えていただけなのに、ヤーシャでさえ知っていた愛情を、腹違いの兄は信用できなかった。
その原因にはヤロスラフの長きにわたる治世や民からの信頼の他に、父が真心を注いだのがダヌタのみであり、腹違いの兄の母ではなかった。そんな背景もあったのでは……と予想しているが、それでもヤーシャから見れば、父は相当な子煩悩だったのだ。
あの謀反の夜は覚えている。
王宮では誰が味方で誰が敵か錯綜し、疑心暗鬼で多くの血が流れた。
内乱が終わっても酷かった。
謀叛の首謀者が戦後に処刑されたのは誰もが知るところだが、それ以外も酷かった。
腹違いの兄の妻子は死んでしまったし、叔父もウツィアを遺してあの世へ行った。
ヤーシャはウツィアの行いは理解できないが、後追いした母の亡骸に縋って泣いていた姿は覚えている。
もし事前に止められたのなら、ラトリア王室はいまも安泰だったのに、兄は「知っていた」と言ったのだ。
「兄上、それは、本当ですか」
「嘘を言ってどうなる」
喉から喘ぐように漏れ出る声にも、兄は心外だ、と言いたげだ。
ウツィアも知らなかったらしく、流石に動揺して両手で口を押さえている。
シグムントは期待が外れた子供のように言った。
「兄上は勇猛、叔父上は策謀で名を響かせていた人だ。お二人が手を組むならば、きっと素晴らしい戦になると私は期待した」
「期待、って、なぜ……」
「その方が愛せる。私は彼らを愛したいから、彼らの誘いを断った」
やはり理解に数十秒を要した。
きっと以前の自分だったら、考える前に思考を放棄していただろう。
あの皇帝が現実を直視しなければならない状況にヤーシャを追い込んだ。
泣きだしはしないが、目元を赤くしながら問いかける。
「結果はどうでしたか」
「……兄上は殊の外、情に厚い方のようだ。私の期待とは大きく外れていた」
このとき、シグムントは心底残念そうだった。
シグムントと長兄が肩を並べる姿を覚えているだけに、ヤーシャは失望を隠せない。
「貴方は……彼らと戦いためだけに、叔父上達を止めなかったのですね」
「だけ、などと言ってくるな。私にとってはなによりも大切な信念だ」
常識が通じないという点では、オルレンドルの連中と知り合っていたのがよかったのかもしれない。
ウツィアを残したのは失敗だが、人払いをしておいてよかった……と続きを促す。
「そのままお聞きします。貴方は王より指名された王位継承権を有する後継者でありながら、何故ウツィアを担いだのですか」
「そんなことか? 私の知るお前であれば、もっと言うべきことがあるのではないかと思ったが」
「私にとっては大事なのです。お答えください」
シグムントとしては、弟が取り乱して責め立てると思ったのかもしれない。
予想外の反応に「ふむ」と片眉を動かすと、しかし困ったように呟いた。
「どうしてというが、国を治めるつもりがありそうだったから任せただけに過ぎないが」
「……なんとおっしゃいました?」
「やりたいといったから、やらせてみようと思った。他に理由はない」
耳を疑ったのは、子供がぐずるから玩具を与えた、と言ってるようなものだったせいだ。
ウツィアとて、彼女なりに弁を用いて勝ち取ったと思っていただろうから、信頼関係から成り立っていたものではないと知り真っ青になっている。
シグムントは「ああ」と伝え忘れた言葉を思い出したように続ける。
「元々私は玉座に興味がないんだ。王などなりたい者がなればいい」
兄が後継者に指名されたとき、ヤーシャはいつか彼の傍らに立ち、役に立ってみせるのだと胸を高鳴らせていた。
それだけ信じていたのだ。あれだけ尊敬した兄から、こんな言葉を聞く日が来るなど思いもよらず、理想がガラガラと音を立てて崩れる心地だ。
もうこれ以上、兄と話していたくない。理想の兄のままでいて欲しい。
盲目でいた過去の己を制するように、ヤーシャは強い力を込めて拳を作る。
「兄上はひとつ嘘を言っている」
「なんのことだ」
「なりたい者がというのは嘘でしょう。ウツィアを指名したのは、あなたなりの人選でしょう。その方が戦を起こすには都合がいい」
ウツィアでは軍の掌握は出来ないし、実権を握るのはどう足掻いてもシグムントだ。
「たしか以前、兄上は父上と手合わせをなされた。あれは兄上の圧勝でしたね」
「よく覚えている」
「父上に向かって堂々と、衰えたなどと言って肝が冷えましたから」
ヤーシャは考える。
どれだけ理解できない理由でも、荒唐無稽な話でも、現実を直視する。
父はもう、兄にとっての標的にはなり得ない。
シグムントはラトリアにおける最高の武人だ。その上を行くとしたら兄で、彼を最高の敵に仕上げられるのは叔父しかいない。
だがその二人は死んだ。
兄は次を探したのだ。そして見つけた。
だがその相手と競い合うには膨大な軍がいる。実権がいる。戦争に持って行くための愚直な王がいる。
「……オルレンドルと……違うな。皇帝ライナルトと戦いたかったのですね」
正解だ、というようにシグムントが微笑む姿は、二人が権力抗争などと無縁だった頃のようだ。
嫌だな、と思う。
気付きたくなかったからだ。
兄がこうもべらべらと喋ってくれる理由を考えたとき、浮かんだのはオルレンドル皇帝だ。
あの男はラトリア王室の中で唯一ヤーシャが「マシ」といって訪ねてきたが、兄と共通している部分がある。 それはヤーシャが皆に事実を訴えたところで、何も出来ないということ。
非力な弟では何も出来ない、敵にもなり得ないから、兄は余裕だった。
そしてもっと最悪なのは……。
「待て待て、お主、どういうつもりだ。もう政に関わる気はないと……」
馴染みのある声が割り込んだ。
そこには市井にいるはずのヤロスラフがいる。
星穹に腕を捕まえられて抵抗していた様子だが、対峙している兄弟を見て怪訝そうに眉を顰めた。
「……兄弟揃ってなにをしている。星穹はいったい――」
ヤーシャにとって死にたいほど最悪なのは、すでに兄を封じる方法を提示されていたということ。
父が姿を現した瞬間、彼は飛び出した。
兄に制されるわけにはいかない。彼にはもう一歩も行動させてはならない。
これは茨の道だ。どう足掻いても自分自身を消耗する。分不相応な挙げ句、心が死ぬかもしれないが、それでも黙して民を死なせるか、行動する後悔を天秤にかけて叫んだ。
「父上。玉座を私に譲ってください」




