カルミア鉱山
資源環境監督庁の分析室は、入江とは別の種類の静けさに満ちていた。
冷却装置の低い唸り。ドラフトチャンバーの換気音。分析機器の冷却ファン。清潔さを感じさせる白い壁と灰色の床。ここでは、潮の匂いもしなければ、魚の腐った臭いもしない。
画面には複数のスペクトル波形が重ねられ、表には様々な数値が踊る。
「一致率は」
「水検体だけだとまだ何とも。ですが、魚体組織とエラの付着物を加えると、おおよその推定は可能かと」
別の分析官が、画面の一部を拡大した。
「採掘時に検出されることの多い有害金属化合物が一番近いですね。親和鉱石採掘現場からの土壌流出にしては、採掘地点が遠いような気がしますね」
「そうね。何らかの理由で、流出した毒素を魚が泳いでいる間に取り込んだ」
「その可能性が高いです。死後に表面へ付着しただけなら、ここまで鰓の内側に残らないでしょうし」
「とすると、やはり採掘残土の可能性が高いわね」
親和鉱石は今最も有用視されている、多分野に応用範囲があるとされる鉱物で、企業群の資源争奪の目下の最大事項でもある。
様々な分野に親和性があるとされるため、親和鉱石という安直な名称が広がっている。
「流出候補は」
「この沿岸へ流れ込む可能性がある事業所は三つです。成分比だけならカルミア鉱山が最も近い。ただ、排水経路が合いませんね」
画面の右側に地図が出る。
カルミア鉱山は海岸線から離れた山中にある。通常の排水系統をたどるなら、問題の入江とは別の水系へ抜けるはずだった。
渓流での不審な水性生物大量死の報告もない。現在の採掘権を持つ黒菱鉱業株式会社から提出された排水分析記録、廃棄物処理記録書、定期モニタリング値にも異常はない。少なくとも帳面の上では、入江まで汚染物質が流れ着く経路は存在しなかった。
現地から戻って半日。分析結果は原因物質を示しているのに、その出所まで線が届かない。エリカは椅子の背にもたれ、目頭を指で押さえた。
休憩を兼ねて、SNSに流れている現地情報へ目を通すことにした。騒ぎに便乗した誤情報が大半だろうが、配信以前の写真や目撃情報が拾える可能性はある。
《KAI’S CAST》の配信を巡る騒ぎは、まだ収まっていなかった。
その中で、以前からカルミア鉱山の操業停止と環境アセスメントの再実施を訴えていた過激な環境活動家の過去の投稿が、半ば見世物のように掘り返されていた。
曰く、国家が汚染水を海に捨てている。
曰く、黒菱鉱業が採掘残土を不法投棄している。
曰く、深夜の山奥に大型トラックが土砂を満載にして走っていった。
添付された夜間写真は暗く、木々の間に細い光が見えるだけだった。車両なのかどうかすら判然としない。
そして、その林道について投稿した日を最後に、活動家のアカウントは更新を停止している。
『消されたんじゃないか』
『口封じされたのでは?』
『見てはならないものを見たんだな』
そんな書き込みまで、面白半分に飛び交っていた。
エリカは眉を寄せながら過去の投稿を遡った。
黒菱の仕業だという断定に、裏付けはない。夜の林道を走る光も、更新が止まった理由も、それだけでは何も意味しない。
やがて、事件とは無関係に見える古い投稿が出てきた。
地元の古老たちは、あの入江には《お戻り様》が来るという。
海へ流したもの。海で失ったもの。遠い土地から運ばれてきたもの。あの入江には様々なものが戻ってくる。
流木や魚は恵みとして受け取り、ときに流れ着く病や死骸は穢れを持ち込むものとして恐れた。海が何かを返す働きを《お戻り様》として崇め、浜辺の祠へ供物を捧げて鎮めたのだという。
今では祭祀も廃れ、入江そのものに正式な地名すら残っていない。それでも老人たちは、そこへ漂着したものを《お戻り》と呼ぶらしい。
活動家は、その伝承へ自説を重ねていた。
――海へ捨てたものは、いつかもとへ戻る。黒菱が山へ捨てたものも、海は必ず返しにくる。
ずいぶん詩的な告発だった。いっそホラー映画の導入のようだ。
バカバカしい。エリカは画面を閉じかけ、指を止めた。
様々なものが、同じ入江へ流れ着く。
伝承に込められた意味は検証できない。黒菱への告発にも証拠はない。だが、何世代にもわたって漂着物が集まる場所として認識されていたのなら、その現象には理由がある。
「海流……か?」
エリカはSNSを閉じ、沿岸潮流の観測データを呼び出した。
既に時間は退庁時間を大幅に過ぎていた。分析AIを呼び出す。
「過去一カ月分の衛星画像に海流データを重ねて。そのうえで降雨記録と潮位を考慮し、風向による漂流予測も出して」
分析アルゴリズムが、条件に合う画像を選別していく。
数日前、まとまった降雨があった。雨そのものは珍しくないが、その後の画像に問題があった。
東側の断崖にあるわずかな谷状地形から、泥水のように濁った帯が海面に伸びていた。
帯は沖へ散らばらず、潮流に乗って細く曲がりながら西へ流れ、問題の入江の前で広がっている。
「なぜ急に泥水が……」
若い分析官が呟く。エリカは端末を操作し、過去画像を呼び出した。降雨後の衛星画像。潮位。風向。似た条件の日を並べて比較する。
画面は、同じ場所に同じ濁りが出ていないことを示していた。
「過去の画像では、この規模の濁水は確認できない」
「雨の後でも?」
「ええ。あったとしても、もっと小規模。沢の濁水が河口付近で薄く広がる程度だったのが、今回は東側からまとまった量が一度に出てるわ」
「自然な出方ではないと?」
「そうだと思う」
エリカは濁った帯の始点を見た。想定流出地点として、赤い円が一つ置かれている。海岸線から少し内側へ入った山地。何もないような場所だ。
カルミア鉱山からは外れている。だが、林道から枝分かれした古い作業道が、その近くまで延びていた。
「この土地の所有者を調べて」
――不法投棄を疑うには、まだ情報が少なすぎる。
それでも、現地を調べるだけの理由はできた。




