危険事業場における作業環境測定監督権
数日後、国家労働局本局の会議室で、エリカ・ノルトハイムは資源庁が掴んだ分析結果を説明していた。
現状では、強制介入班を動かすような急迫案件ではない。橘はアルテミシアの補佐官として、会議卓の端に座っていた。
エリカは、事の顛末を順序立てて説明していく。入江へ漂着した魚の死骸。鰓に付着していた親和鉱石由来の有害化合物。沿岸潮流と降雨記録から絞り込まれた、カルミア鉱山周辺の流出地点。
だが、黒菱鉱業が提出した排出記録、処理済みサンプル、運搬記録は、帳面の上では整っている。資源庁単独では、強制調査へ踏み切るには弱かった。だからエリカは、労働局へ協力を求めに来ていた。
作業環境の粗から、残土処理の実態へ手を伸ばす。正面から環境犯罪を問えないなら、作業環境測定の側から崩す。そういう迂回策だった。アルテミシアは黙って話を聞いていた。エリカの説明が終わると、静かに口を開く。
「なるほど。環境事案として正面から踏み込むには根拠が弱く、資源庁としても動きが取りにくい、と」
「そうなります。そこで、作業環境測定の側面から何か引っ掛からないかと考えました」
「なぜ当局へ、と思いましたが……なるほど、合点がいきました」
会議が終わると、室内の空気は少しだけ緩んだ。
ナディアはまだ来週の休暇を諦めきれていないのか、しょぼくれた犬のような顔をしていた。それに関して情報部の部下たちは笑うべきか、慰めるべきか判断に困っていた。
監督部の職員たちは、すでに作業環境測定結果と登録IDの照合に必要な部署を頭の中で並べ始めた。
エリカは、モニターに接続していた端末を外し、資料をケースへ収めていた。
書類を集めるためにうつむいた際に、肩口で切りそろえられた黒い髪の隙間から、瞳の色に似た石と金色のチェーンが耳元で揺れた。
「ノルトハイム連絡調整官」
橘伊吹は、その背中へ声をかけた。
「ノルトハイムで構いませんよ、橘補佐官」
エリカは振り返り、そう返す。
「私のことも橘で構いません。では、ノルトハイムさん。資源庁は、カルミア鉱山から出ている残土処理に問題があると見ている。そう考えていいですか」
「ええ。そうです」
エリカは手を止めずに答えた。
「では、なぜ海洋汚染防止法や鉱山法から強制調査を実行しないのですか。成分分析の結果としては、調査に入るには十分そうに見えますが」
その問いに、エリカの手が一瞬だけ止まった。
「……そうですね。おっしゃる通りです。私もそう上に掛け合いました。当庁でも、強制立入りは可能です」
「それならなぜ?」
「上の腰が重い。理由は説明されていません。ただ、あまり表に出せない何かがあると、私は考えています」
「ああ……なるほど」
橘は短く息を吐いた。
「それで、企業群と真正面からぶつかっている我々に白羽の矢が立ったと」
エリカはケースの留め具を閉じた。
「申し訳ありませんが、言い方を選ばないなら、そうなります」
「わかりました。我々は、そのために総裁とこの組織を作っています。必要な範囲で使ってください」
「ありがとうございます」
エリカは微笑んでそう返した。
「これからしばらく、よろしくお願いしますね。橘さん」
「こちらこそ」
橘は短く答え、握手を交わす。
それから、エリカが持ち上げようとした資料ケースへ目を向ける。
「重いでしょう。連絡調整官のオフィスまでお持ちします」
「すみません。正直、助かります」
エリカは少しだけ肩の力を抜き、ケースから手を離した。橘は資料ケースを受け取る。見た目より重い。単なる分析資料ではない。資源庁がここまで積み上げ、それでも動けなかった事実の重さだった。
アルテミシアは、その様子を少し離れた場所から横目で見ていた。何かを言うほどのことではない。そう自分に言い聞かせ、何も言わなかった。
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二日後、橘はアルテミシアのオフィスで出張の申請についての説明を求められていた。
「作業環境測定、とくに鉱山では粉塵対策が重要になります」
橘は申請書に添付した検査項目を表示した。
「保護具の適正使用を軸に、捕集された粉塵の成分と、フィルターの交換頻度を照合します。規定どおり固化処理されていない残土を扱っていれば、作業区域や使用済みフィルターに痕跡が残る可能性がある」
「つまり、労働者の曝露状況から残土の処理実態を逆算する、と」
「はい。残土の混和、積載、運搬も作業工程です。測定対象に含めることに無理はありません。ノルトハイムさんがいれば、採取した粉塵や残土の成分もその場で判断できます」
ノルトハイムさん。
その呼び方に、アルテミシアの目元がわずかに動いた。橘は気づかない。いつもと変わらない調子で、検査手順の説明を続けている。
「作業環境測定で虚偽が見つかれば、労働局として処分できる。未処理残土が見つかれば、資源庁が動ける。どちらに転んでも、現状よりは前へ進めます」
「……そうですか」
アルテミシアは申請書へ視線を戻した。内容に問題はない。同行者の選定も合理的だった。それでも申請の承認に一拍の間があった。アルテミシアは、その一拍を作ってしまった自分と、それに気づかない橘の両方に、わずかな苛立ちを覚えた。




