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一方的な交換条件

『一人目だ』


停留所の女は気づいた。橘へ向けていた視線が新聞スタンドへ動く。様子が変わったことに気が付いたのか、靴紐を結ぶふりをやめ立ち上がる。人波へ入り路面電車に乗ろうとする。その扉の前に、二人の男が立ちはだかるのが見えた。女は足を止め右へ逃げる。そこにも一人いる。逃げ場はない。


『二人』

「二階は」

『押さえに行ってる。裏階段へ出たところで止める』


端末が震えた。


<何をしたの>


橘はすぐには返信しなかった。大通りにいる。目につくところにいる。歩いてすらいない。数秒置いて橘は短く入力した。


<見ての通りなにもしていない>


返信はない。その沈黙だけで十分だった。


『二階も押さえた。とりあえず怪しいのはこれで全て押さえた』


大通りでは、人々が何事もなかったように歩いている。新聞スタンドも、路面電車も、時計店のショーケースも、そのままだ。

ただ、見えないところで盤面が少しだけ動いた。ミラージュは橘を大通りに留め置きたかったらしいが、橘はそこへ彼女が追跡者だと思っていた者たちを、目、そして手として使った。


『何かわかったら教えてやる。大人しくしていろ』


ヴァイスはそう言い捨てると、乱暴に通信を切った。大人しくしていろ。ミラージュも、ヴァイスも、アルテミシアでさえも。


――どいつもこいつも、俺にじっとしていてほしいらしい。


橘は通りの反射を見た。自分の動きに合わせて揺れていた視線は消えている。クラウディアとの約束もある。ヴェルフラードにしばらく残るなら、地元の勢力を敵に回す理由はない。


――任せるべくは任すか……


橘はポケットの中で端末を握った。待つことと、従うことは違う。動かないことと、何もしないことも違う。義眼により視界内にうつしだされる回線を検索する。登録名はない。以前、必要になれば使えと一方的に渡された連絡先だった。

発信から数秒の沈黙、そしてそれに対して明るすぎる声が返ってきた。


『おや。橘様から連絡が来るとは珍しい』

「どうせ、こちらの状況も掴んでいるんだろう」

『おやおや』


プーカの声がわずかに弾んだ。


『橘様にしては、ずいぶん乱暴な決めつけですね。でも正解です』

「どうせお前ならやると思っただけだ」

『ひどい信用ですね』

「瑞海……というよりは企業群か……いずれにせよ連中の足を引っ張りたいなら協力しろ」


プーカはどうやら企業群に対して、浅からぬ因縁があるとの察しはついている。


『おやおや……くくく、私のこともお調べになったのですね。さすがですね』

「御託はいいから情報をよこせ」


プーカの笑みが深まるのを感じた。


「ミラージュにつながる情報は」

『アルテミシア様ではありませんので、貸し一つですね』

「構わない」

『即答ですか。もう少し嫌がってくださってもよろしいのに』

「時間がない」

『ええ。存じております』


プーカの声が仕事の声になる。


『面白いものがあります。ミラージュは、セーフハウスからの真船先生の回収に反対しています。警察との直接衝突は現地の足場をまとめて焼きかねない、と』

「だが、作戦は実行された」

『はい。彼女の上、あるいは横にいる誰かが進めたようですね。オルセアの現地担当はまだ巻き返せると見ている。瑞海の本体側、まあ一部でしょうが……もう損切りを始めている。ミラージュは、その間に挟まれています』


橘は時計店のガラスに映る自分の顔を見た。


「真船回収から今日の接触まで時間が空いた理由は」

『内部の調整でしょうね』


プーカは軽く言った。


『誰を残し、誰を切るか。現地会社、本国派閥、外部戦力。意見が揃うまでに時間がかかったのでしょう』

「それで、単独で動いた俺を選んだわけか」

『幸運だったのでしょう。橘様が単独でヴェルフラードにいたことは、あちらにとっても都合がよかった。アルテミシア様へ直接触れるより安全で、ナディア様へ触れるより解析されにくく、神山様へ触れるより警察案件になりにくい』

「俺が与しやすいと思ったか」

『伝言役としては、です』


プーカは笑った。


『ただ、実際に与しやすい人間かどうかは、また別のお話でしょう』


橘はしばらく黙っていた。ミラージュは余裕があるのではない。余裕があるように見せている。十八時間。それは交渉の時間ではなく、撤退に要する時間ということだ。

現地法人を切る。協力業者隠す。武器を分散する。帳簿を焼く。レーヴェのきれいな面を残したまま、裏側だけを畳む。そして、自分へ繋がる線を消す。


「子どもを引き渡すのは」

『当然、善意ではありません』


プーカは即答した。


『重い荷物を降ろすためでしょうね。雑に殺して騒ぎになるより、引き渡して相手の手間を取らせるほうが得だと判断した。彼女は善人ではありません。ですが、雑な仕事をする連中は嫌いなのでしょう』


橘はポケットの中の黒い端末へ触れた。そこにはミラージュの文面が残っている。善人ではない。雑な仕事は嫌い。あれは挑発ではなかった。


「他にも何かあるか?」

『こちらでも探ってみましょう。橘様に貸しを作れるまたとないチャンスですしね』

「総裁には報告するぞ」

『もちろん。隠し事はいけません』

「お前が言うな」

『本当のこととはいえ、ひどいですね』


プーカは笑った。


『では、橘様。大人しくしていてくださいませ。皆様、そう望んでいらっしゃるようですから』


通信は切れた。橘はしばらく、時計店のガラスに映った通りを見ていた。

ミラージュはヴァイス達、ノルーディアを知らなかった。だが、橘が追われていることは知っていた。見えてはいる。だが、正確に見分けられてはいない。

万能ではない。そして、彼女自身もまた、指揮系統の中で自由ではない。

橘は義体内通信を新たに発信する。労働局総裁直通の緊急回線ではない。今度はCICへ向けた報告だった。


---


3時間後、ヴァイスから短い通信が入った。


『男が持っていた端末から、ひとつ情報が出た』

「ミラージュか」

『本人への線ではないが、あの女が見ていた映像だ。オルセア国内に存在する短期賃貸の事務所。借主はおそらく瑞海のペーパーカンパニーだ』


橘は時計店のガラス越しに通りを見た。再び霧が流れ、通りに面した壁面の蔦をみずみずしく濡らしつつある。


グラウベルク(企業群)の子飼いのクラッカーを使ったとかで、端末のセキュリティを突破したらしい』


橘の眉がわずかに動いた。


「グラウベルクが?」

『間接的な瑞海への嫌がらせだろうよ。自分のところの縄張りで好き勝手な動きをされたからな。ずいぶん腹に据えかねてるらしい』

「内容は」

『お前たちの探し物の位置情報だろう。途中で切れているが、移送経路の一部は残っている。持っていけ』


橘は送られてきた座標列を確認した。点は飛び飛びだった。だが完全な無意味ではない。


『お前の協力でミラージュの位置が割れたらしい。グラウベルクとしては瑞海の連中の駒を排除できる機会ができた』

「それでミラージュは」

『逃げている。だが、移送経路にパンくずを残している。あいつも、慌ててるのか全部を綺麗には消せていない。グラウベルクのほうから人を出すらしい。手仕舞いにして、国内の事に集中したほうがいい。連中のメンツをつぶすのはあまり賢いやり方とは思えん』

「ミラージュの事は諦めろと?」

『その代わりの情報は渡したはずだ』

「……報告だけは上げさせてもらうぞ」

『ご自由に』


橘は座標列をCICへ転送する準備をした。


「……ヴァイス」

『何だ』

「思うところはあるが、助かる」

『俺に言うな。言うなら、瑞海に嫌がらせしたいグラウベルクの連中に言え』

「礼を言う相手は選ぶ」

『律儀な奴だ……霧深くとも、次の灯で』


返事も待たずに通信が切れた。橘は苦笑し、送られてきた座標を見ながらグラウベルクの損得を頭の中で並べた。

グラウベルクの連中は瑞海に国境圏の縄張りを荒らされている。その状況でミラージュのように広域で動ける工作員を押さえられる。橘に貸しを作れる。国家憲兵局の関係者へ協力したという実績も残る。ついでに瑞海への嫌がらせにもなる。

得るものはいくつもある。払うものは、子飼いのクラッカーを少し動かす程度。なるほど動くことにも理解はできる。


善意ではない。正義でもない。


企業群同士の縄張り争いが、たまたまこちらの追う線を照らしただけだ。

橘はすぐにCICへ追加報告を送った。子どもたちは手がかりを得た。その一文だけで十分だった。ヴァイスからの情報を添付する。時間はまだ残っている。向こうが撤収のために使う時間なら、こちらにとっては残された僅かな線を拾う時間でもあった。

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