文化交流の促進
ヴァイスと別れ再び大通りへと戻ろうとした時、橘が受け取った黒い端末に短いメッセージが入った。
<あなた、つけられているわよ>
橘は歩調を変えずに画面だけを見た。
<すでに巻いた>
返信はすぐに来た。
<おかしな真似はしないことね。大通りの目につくところにいてね坊や>
橘は端末をポケットへ戻した。
――どうやらこいつはヴァイス達については知らないようだ。
ミラージュが指している追跡者はヴァイスたちの事だ。このメッセージを送っているということは、逆に考えればヴァイスとの窓口は気が付かれていないということになる。
ミラージュは橘が一度巻いたことも、その時に相手の身元を確かめ、連絡手段を手に入れたことも知らない。
だから、すでに巻いたという嘘が通る。だが、問題は別にあった。ヴァイスたちとは別に監視されている感覚がある。当然ミラージュが、というより瑞海側からも橘を監視しているのだろう。問題はどこまで見えていて追跡者はだれかということだ。
橘は義体内通信で、ヴァイスの連絡先を呼び出した。応答は早かった。
『……まさかこんなすぐに連絡してくるとは思わなかったぞ』
声だけで面倒ごとが来たと感じているのが分かる。
「ヴァイス。どうせそっちも完全には引いていないんだろう」
『人聞きの悪いことを言うな。こちらは保安上の必要な距離を保っているだけだ』
「ミラージュは、お前たちを俺の追跡者だと思っている」
『だろうな。こっちの所属までは割れていないはずだ』
「そのまま追っているふりを続けろ。彼女の視界の範囲と、お前たち以外に張り付いているやつを洗いたい。情報をこっちにも回せ」
『くそ、簡単に言いやがる』
「俺が大通りに戻る。俺の動きに反応するやつの記録を頼む」
『偉そうに指示すんじゃねぇ。黙って待っとけこの田舎者が』
「了解」
『何が了解だ間抜け。腹が立つ』
橘は通話を切らずに大通りへ戻った。幸いにも霧はまた薄くなっていた。濡れた石畳。路面電車。書類鞄を抱えた役人。観光客。店先で煙草を吸う老人。コーヒーを片手にベンチに座るもの。
端末が震えた。
<いい子ね。そのままおとなしくしててね>
ミラージュからだった。橘は返信しなかった。そして数分が過ぎる。
橘は店のショーウィンドウを見るふりをして、通りを歩いた。歩幅は一定。速度も一定。追われている者の歩き方ではなく、時間を潰している者の歩き方だ。
『よし』
ヴァイスの声が戻った。
『お前の動きに合わせて、うちの二人が動いている。外から見れば追跡に見えるはずだ。まだ別口がいるだろうな』
「そのまま続けてくれ」
『言われなくてもやってる』
橘は角を曲がらず、わざと大通りをそのまま進んだ。
路面電車が停留所へ入り、乗降客が流れる。その人の波に合わせて、ノルーディアの二人も少し動いた。橘が立ち止まる。二人も遅れて止まる。橘が歩く。二人が距離を取り直す。
『うちの二人を見ているやつがいる。新聞スタンドの横。もう一人は向かいの二階窓だ。』
「ミラージュの人間か」
『不明だ。少なくともノルーディアじゃない。あの女の手か、さらに別口かそこまではまだ言えん』
「他には」
『待て』
ヴァイスの声が少し遠くなる。別回線で短く指示を出しているらしい。橘の視界端に、粗い空撮映像が一枚流れ込んだ。建物の屋根線より少し上。小型UAVの映像だった。
通りを歩く橘。その後方に、距離を取りながら動くノルーディアの二人がマーキングされていた。それとは別に、新聞スタンド横で動かない男。二階窓の奥で外を監視している人物の熱画像が映し出される。さらに、路面電車の停留所から一人が後を追うように移動を開始する。
『三人目。女だ。お前が止まった時だけ靴紐を結ぶふりをしている奴だ』
新たに女がマーキングされる。
「記録は」
『取ってる。顔はまだ判別しきれない。もう少し正面を向かせろ』
橘は通りの反対側へ目をやった。パン屋の看板を眺め、郵便局の古びたポスト、古い時計店と流し見る。人が立ち止まっても不自然ではない場所はいくつかある。
橘は時計店の前で立ち止まった。ショーケースの中には、古い懐中時計が並んでいる。しつらえを確認するふりをして、ガラス面の反射から監視の様子を確認する。後方の男が新聞を持ち替え、停留所の女が少しだけ顔を上げる。二階窓の影は動かない。
『二人、顔が取れた。停留所の女もだ』
「二階は」
『熱源はある。窓際から離れない。監視役だな。通信を拾えるかはまだわからん』
ヴァイスの声が少しだけ低くなる。
『仕掛けるぞ』
橘は眉を動かした。
「何をするんだ」
『相互文化交流ってやつ。さっきてめぇが言ってたやつさ』
「待て。動くな」
『貴様に指揮権はない。あの女はお前を大通りに釘づけにしたい。なら、監視している目を叩けば何か動きがあるだろう』
「無茶をするな」
『お前は気が付いていないふりをしていろ』
ヴァイスは回線を開いたまま、別の指示を飛ばしている。
『一班、新聞を読んでいる男。二班、停留所の女。三班は二階のぞき見野郎を押さえろ。公道で騒ぐなよ。手早くやれ』
橘は大通りの真ん中で何も知らない男のふりを続けた。ここで自分が動けば、労働局が動いたことになる。ミラージュはそれを口実にできる。証拠を焼き、人質を動かし、取引を破る理由にする。
だがヴァイスたちは違う。ノルーディアセキュリティ保安部。ミラージュから見れば、所属の割れない現地の追跡者にすぎない。彼らが誰かを押さえても橘は知らない顔ができる。少なくともこの瞬間、労働局は手を出していないことにできる。
汚い理屈だ。だが、天秤に載せるのはきれいなものだけとは限らない。この国にはこの国の流儀があるということだ。
新聞スタンドの男が、ほんの少しだけ肩を動かした。その背後で、買い物袋を提げた中年の男が新聞を手に取る。動きは自然だった。紙面を広げる。新聞スタンドの男の視界が一瞬だけ塞がる。新聞スタンドの男の手首が、紙面の陰で押さえられる。素早くスタンガンが押し当てられ無力化される。買い物袋の中から伸びた短い拘束具が、男の親指と手首をまとめて固定していた。




