相互文化交流のお知らせ
「……そちらこそ、何者だ」
橘は返事をしなかった。
「女と接触していたのを見た」
男が絞り出すように言った。橘の目がわずかに細くなる。
「ミラージュを知っているのか」
「とぼけるな。貴様は瑞海の工作員だろうが」
「待て。何の話だ」
男は歯を食いしばった。
「俺たちはノルーディアセキュリティの保安部だ。入国したミラージュらしき女を監視していた。貴様が接触し、端末を受け取ったところも確認している」
ノルーディアセキュリティ。橘はその名を記憶領域から引いた。ヴェルフラード国内の民間保安会社。グラウベルク機構の企業と契約がある。国家憲兵局の下請けに入ることもあるが、正式な捜査機関ではないはずだ。
PMCと言って差し支えないないだろう。
拘束されたまま、男は語気を荒げて言う。
「貴様は国家憲兵局へ引き渡す。手を放せ!」
「ちょっと落ち着け」
「黙れ!」
「俺はオルセア連邦国家労働局の人間で、あの女を追っている側だ。国家憲兵局のジルベール少将に問い合わせろ。照会すれば確認が取れる」
男の動きが、一瞬止まった。
「……何だと」
「信じなくていいが、確認しろ」
橘は男の腕を解かなかった。
「今から腕を離す。ただし、そちらが正式な憲兵局案件で動いているなら、上に照会を入れろ。俺の身分証も見せる」
男は黙った。その沈黙で橘はだいたいを理解した。正式な命令ではない。だが完全な企業判断でもない。グレーな示唆と忖度の上で動く、ヴェルフラードらしい記録に残りにくい仕事だった。
「わかった。手を放してくれ。確認する」
男は低く言った。
「お互い、妙な動きはなしで頼むぞ」
「いいだろう」
橘は男の腕から手を離した。ただし、一歩だけ距離を取った。相手の右手の位置を視界の端に置いたまま、路地の出口を塞ぐ角度へ立つ。男は右肩を軽く回した。
「くそ。馬鹿力め……!」
そう吐き捨て振り返る。その瞬間、男の右手が懐へ伸びる。引き出すのと同時に伸縮式の特殊警棒が金属音を立てて展開する。先端が橘の喉元へ走った。速い。素人の動きではない。
橘は左手で弾いた。警棒の先端が袖を掠め、壁に硬い音を立てる。弾かれた反動を使い、男はそのまま身体を反転させた。後ろ蹴り。狭い路地で出すには無駄の少ない蹴りだった。
橘は右腕で受けた。だが完全に受け止めるのではなく、踏み込む。
蹴り足が伸び切る前に距離を潰し、威力の芯を殺す。男の靴底が橘の前腕に当たり鈍い衝撃だけを残した。
「ちっ!」
男は舌打ちし、即座にバックステップで距離を取る。警棒を構え直した姿勢には迷いがなかった。
橘は左手を軽く開閉した。掠めた箇所の人工皮膚に細い裂け目が入っている。
「確認するんじゃなかったのか」
「確認するさ。だが、それは拘束してからでもできる」
「慎重だな」
「この国では美徳だ」
橘は短く息を吐いた。面倒だ。ミラージュの声。おとなしく待っていて、という一文。
自分では意識していなかったが、どうやら腹が立っていたらしい。橘の口元がわずかに弧を描くよう歪んだ。
普段の彼を知る者が見れば、そこで一歩引いただろう。笑みと呼ぶには温度が低く、怒りと呼ぶには静かすぎる。だが、そこには確かに橘の中で燻っていた獰猛さが表れていた。
「もう面倒だ」
橘は言った。
「一度きっちり畳んでから、ゆっくり相互文化交流を育むことにしよう」
男の眉が動く。
「何を言っている」
「悪いが、八つ当たりに付き合ってもらう」
「わけのわからんことを!」
男が先に動いた。
警棒の先端が、今度は顔面ではなく膝を狙う。対義体を意識した低い打突。関節部へ入れば、人工筋束の反応を一瞬遅らせられる。
半歩下がり、靴底で蹴り逸らす。男はそのままの勢いで距離を詰め、打撃を繰り出す。悪くない。だが遅い。
橘は踏み込んだ。打撃を避けるのではなく、間合いそのものを潰す。男が引こうとした瞬間、橘の右手が警棒を持つ手首へ触れた。
義体に仕込まれたスタンガンがバチリと音を鳴らす。
「がっ……!!」
それだけで、男の動きが止まった。その瞬間、男の顎に橘の掌底が突き刺さる。
それでもなおもう一度、踏み込んでくる。落とした警棒を拾うのではなく、橘の襟を取りに来る。柔術の系統だろうか。
男の右手が襟へ伸びた瞬間、橘はその手首を外側へ流した。力の向きをずらす。男の体勢が前へ泳ぐ。橘はそのまま腰を入れた。投げる。男の視界が反転した。
石畳が近づく。
その直前、橘の左手が男の背広の襟を掴み、右手が腰のベルトを引いた。落下の速度が殺される。叩きつけるのではなく、転がす。肩から背へ、衝撃を逃がす角度で地面へ落とす。
それでも息は詰まった。
「ぐっ……」
男は石畳の上で呻いた。橘は片膝をつき、男の右腕を押さえた。関節は極まっている。だが壊れてはいない。
「殺す気なら、今ので終わっている」
男は荒い息のまま、橘を睨んだ。
「……わかった」
「確認しろ」
橘は手を離した。今度は、男も妙な動きをしなかった。痛む肩を押さえながら、端末を取り出す。相手が出るまでの数秒、路地には川の音だけがあった。
「ヴァイスです。対象者を拘束……いや、接触中。相手はオルセア連邦国家労働局を名乗っています。ジルベール少将への照会を要求」
通信の向こうで、何かが返る。男の表情が変わった。
「……了解。協力対象。敵対行動禁止ですか……了解」
通信が切れる。男はしばらく端末を見ていた。
「詳細は伏せられたままだが、貴様の名前と所属はわかった」
「もう十分だろう」
男は舌打ちした。
「くそ、いったい何なんだ」
橘は答えなかった。男は痛む肩を回し、警棒を拾い上げる。ただし、今度は展開したまま構えず畳んで懐へ戻した。
「ノルーディアセキュリティ保安部、現場班長。エルンスト・ヴァイス」
「橘伊吹」
「知っている」
ヴァイスは端末を操作し、短距離連絡用の符号を一つ表示した。
「俺たちは、憲兵局と連携し、国内で妙な連中が動いていないかを見る仕事もある」
「今回だと瑞海か」
「そうだ。ここしばらく、瑞海の関連企業が動きすぎている。旧ウルガンクスの人材、義体部品や、傭兵まがいの連中、非合法の輸送。少しずつこちらの領域へ踏み込んできている」
ヴァイスは橘を見る。
「そこへミラージュらしき女が入国した。監視していたら、あんたと接触し端末を渡した。こちらから見れば、瑞海の工作員同士が連絡を取ったようにしか見えない」
「なるほど」
橘は短く答えた。
「確かに、そう見えるな」
ヴァイスは面白がるように答える。
「納得が早いな」
「誤認としては妥当だろう」
ヴァイスは鼻を鳴らした。
「敵の敵は味方ということにしておく」
「味方かどうかは、まだ早い」
「慎重だな」
「この国では美徳だ。そう言ったのはあんただろう」
ヴァイスは、痛む肩を押さえたまま、少しだけ笑った。
橘は先ほどのミラージュとのやり取りの一部を説明し、協力を要請する。
「連絡先だ。表の回線では使うな。こっちも記録に残したくない仕事をしている」
橘は符号を義体内記録へ保存した。
「こちらからも必要があれば連絡する」
「必要がなくても連絡しろ。あんたがミラージュから受け取った端末の件、こちらも見ている。あの女はこちらでもマークしているからな」
ヴァイスは路地の出口へ視線を向けた。
「相互文化交流はもう十分だな」
橘は短く答えた。
「そうあることを願ってるよ」




