天秤の傾き
神山は通信越しに苦い顔をしていた。
『また厄介な話を持ってきましたね』
「申し訳ありません」
『謝られると、こっちが困ります。子どもがいる可能性があるなら、警察としても無視できない』
「ただし、正式な捜索令状へ落とすには情報源が危うすぎます」
『でしょうね。ミラージュからの取引話では、裁判所に出せない』
まっとうな情報でない以上、証拠にはなりえないことは明白だ。
『こちらで行方不明児童、保護施設の移管記録、福祉局の保全資料を再照合します。連中からの脅しがあるなら突入前提ではなく、まず周辺避難の名目で進めましょう』
「お願いします」
『ただし、総裁』
「はい」
『労働局だけで先に踏み込まないでください。真船事務所でSAGに被害が出ています。高脅威化した時点で、これは警察と国防軍の領域です』
アルテミシアは目を伏せ、その線引きに対して答える。
「理解はしています」
『本当に?』
神山h声に疑念を交え、重ねて問う。
「本当に、です」
『なら結構』
通信の向こうで、紙をめくる音がした。
『ただ、初動で労働局が拾える情報、切り込める線はあるはずです。施設監査、委託契約、後見人記録、労務配置。そちらでしか早く見えない線を追ってください』
「何かつかめたら共有します」
『では、こちらも動きます』
通信が切れた。アルテミシアはしばらく画面を見ていた。
労働局ができること。
警察ができること。
国防軍ができること。
どれも違う。違うからこそ、企業群はその継ぎ目を使い法を抜ける。労働局は継ぎ目に立ち、そのグレーさを逆手に取る組織だ。
アルテミシアは橘への回線を開いた。
『橘さん』
『はい』
『いったん話を受けます』
橘の前で、料理は半分ほど減っていた。
端末はまだ皿の横にある。最初のメッセージを確認してからそれ以上は触れていない。
店の中に目立った変化はない。川沿いの窓際では老人が新聞を読み、奥の席では若い男女が小声で話している。
『本気ですか』
『本気です。ですが、十八時間、これはこちらの手札ともいえます』
アルテミシアの声は静かだった。
『子どもを見捨てる選択肢はありません。だから、取引を受ける。相手が欲しがっている時間を与えたように見せて、その時間でこちらも線を追います』
橘は、黒い端末を見下ろした。
『返答を送信した瞬間に変化があれば、項主任技官が拾います』
『了解』
橘はスプーンを置いた。右手を伸ばす。黒い端末は安物の樹脂でできていた。どこにでもあり、誰にでも買え、使い捨てるためのものだった。橘の指がそれに触れた。画面が点いた。文字は一行だけだった。
――答えを。
橘はしばらくその文字を見ていた。それから短く入力した。
――十八時間、レーヴェへの強制査察は行わない。子どもを引き渡せ。
送信。数秒後、返信が来た。
――賢明ね。無為に殺すのは嫌いと言ったでしょう。私は善人ではないけれど、雑な仕事をする連中は嫌いなの。
続けてもう一行。
――時間が来たら、受け取り場所を送るわ。おとなしく待っていて。
橘は画面から手を離した。おとなしく……か、なめやがって……。
その言葉だけが、口の中に苦く残った。橘はゆっくりと息を吐いた。
店内は何も変わっていない。変わっていないことを橘は記録した。給仕の歩幅。厨房から聞こえる皿の音。奥の席で話す男女の視線。新聞を広げた老人の指の動き。窓に映る川沿いの歩道。出入口のガラスに一瞬だけ重なる通行人の影。
義体内の記録領域に、映像と音、熱源の揺れが無言で積まれていく。橘は支払いを済ませ席を立った。店を出ることにした。
『橘さん』
項主任技官の声が、義体内通信に入った。
『周辺カメラをいくつか借りました。まぁあまり褒めらたやり方ではないので、手短にお願いします』
「了解」
視界の端に低解像度の監視映像が並んだ。川沿いの歩道。橋のたもと。古い郵便局の壁面カメラ。路面電車の停留所。橘の後方に付かず離れずの三つの影があった。
距離を保っており、互いに目を合わせず無関係を装う。CICの戦術AIが移動タイミング、距離感、顔の向きなどから高い確率で連携していると評価し、警告を表示する。
歩調だけがこちらに合わせている。素人ではない。だが、専門の尾行員というほどでもない。
霧は歩き出すころにはさらに濃くなっていた。川沿いの道には、濡れた石畳が鈍く光っている。橘は急がなかった。追われている人間の歩き方ではなく、昼食を終えて次の予定へ向かう人間の速度で歩いた。
『三人。もう一人、橋の向こうにいます。連絡役かもしれません』
「見えている」
橘は次の角で、川沿いの道を外れた。観光客の通る大通りではなく、古い建物の裏手へ続く狭い道だった。野良猫が建物の隙間に消えていく。霧と石壁に音が吸われる。そこは店の看板が少なく、人通りも途切れ、時間の進み方が大通りと異なっている。
追跡者たちの間隔がわずかに詰まった。橘は再び角を曲がった。次の瞬間、義体出力のリミッターを一段解除する。
足裏の人工筋束が石畳を踏みしめ、膝関節が沈み大きく跳ねた。身体はほとんど音を立てずに、左手にある三階建ての古い建物のベランダの手すりを片手で掴む。そのまま反動を殺して内側へ滑り込む。
下の路地には、もう橘の姿はない。数秒後、追跡者たちが角を曲がってきた。
一人が足を止める。一人が前方を見る。もう一人が、端末を取り出した。
『見失ったようですねぇ』
「そのまま見ていてくれ」
追跡者たちは短く言葉を交わし、散った。前方へ一人。来た道へ一人。横の細い路地へ一人。
橘は、細い路地へ入った男を選んだ。進む先には古い配管と、錆びて朽ちかけた車輪のない自転車、割れた酒瓶が転がっているだけだ。
道の奥は行き止まりだった。男がそれに気づき舌打ちをする。
振り返ろうとした瞬間、橘はベランダから落ちた。着地音は男の息を呑む音より小さかった。
「用件を聞こう」
男が振り向く前に橘は右腕を取って背中へ回した。関節の可動域を越える直前で止める。痛みだけが走り、壊れない角度だった。
そのまま壁へ押しつける。男の口が開いた。
橘は空いた手で後頭部ではなく顎の下を押さえた。声を出せば喉に力が入る。その力がそのまま痛みに変わる位置だった。
「声を上げるな。腕をへし折られたくはないだろう」
男はうめいた。
「返事は」
小さく、うなずく気配があった。
「よし」
橘は少しだけ力を緩めた。
「お前たちは何者だ」
男は、壁に押しつけられたまま、荒い息を吐いた。




