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十八時間の猶予

「橘さんから緊急連絡です。ミラージュを名乗る人物が、ヴェルフラードで橘さんへ接触しました。未移送の子どもたちを引き渡す代わりに、レーヴェへの強制査察を十八時間待てと要求しています」


当直の分析員が息を呑んだ。


「返答猶予は」


ナディアの声だった。彼女は入室しながらすでに端末を開いていた。呼び出しからここまで、ほとんど時間は経っていない。髪はまとめられておらず、上着の前も閉じきっていなかった。


「一時間です」


アルテミシアは答えた。ナディアは苦々しい顔をする。


「総裁、レーヴェに強制臨検を実施するには根拠が弱すぎます」


声には、隠しきれない苛立ちがあった。


「レーヴェは黒でしょう。そこは疑っていません。ですが、すべての黒幕がそこにいるのかはわかりません。人質がどこにいるのかも実際は不明です」


ナディアは端末に視線を落とし、憎々しげに続けた。


「この状態で踏み込めば相手に証拠を焼く口実を与えるだけです。人質を危険にさらすうえに、また罠がある可能性もあります」


ナディアは短く舌打ちしそうになり、それをかろうじで飲み込んだ。


「橘さんの位置は」

「川沿いの飲食店です。端末はメッセージ確認後、それ以上は操作させていません」

「項主任技官を呼んでいます」

「なら、端末はこれ以上操作せず、店内の監視系統を洗うべきです。ヴェルフラード側に頼めますか」

「頼めますが、国家憲兵局を動かせば相手に察知される可能性があります」


アルテミシアは画面を見たまま言った。


「グロモワ上席技官、ジルベール少将は信用できますか?」


ナディアは真意を測るように、電子の光に照らされたアルテミシアの冷たい横顔を見る。


「あの国の国益に適うのであれば……」

「では連絡し、協力要請をお願いします」

「わかりました」


ナディアは席に座る前に、もう通信を投げていた。


---


項主任技官はいつもより無表情だった。

彼は作戦卓の前に立ち、橘から送られた視界記録と店内の位置情報を確認している。橘の義体内通信は映像を送れる。


「料理と一緒に運ばれてきたなら、店員が協力者か、買収されている可能性が高いでしょう」

「遠隔で中身を読めますか」

「やめておきましょう。読もうと思えば読めますが、慎重にやらないと探知されますな」


項は淡々と答えた。


「ただし、橘さんの義体通信を中継点にして、端末の外部発信だけを観測することはできます」

「危険は」

「あります。ですが直接触ってあれこれするよりはましでしょうなぁ」


アルテミシアは、作戦卓に置かれた法人関係図へ視線を落とした。


レーヴェ公益保全財団。

真船法務事務所。

新華月警備。

海辰設備管理。

海辰遠洋運輸。

南桟橋の外洋輸送船。

瑞海国際通商ホールディングス。


たどるべき線は増えたが、線が増えれば増えるほど、絡み合ったもつれを解きほぐすのに時間がかかる。

子どもたち。アルテミシアはその言葉を、頭の中で一度だけ反芻した。


「総裁」


項が言った。


「どうも端末から定期的な発信があるようですな。おそらくそれほど遠くない場所に受信端末があるはずです」

「受信元は割り出せそうですか?」

「現時点では不明です。安物のプリペイド端末そのものから、持ち主や購入者を引くのはまず無理でしょう。ただ、向こうがこの端末を連絡待ちに使うなら、どこかで呼び出しを拾うか、こちらの応答を見て動く人間がいる。追うなら端末ではなく、その反応です」

「見ている?」

「店内か、周辺か、通信か。どれかはまだ」


項は画面を切り替えた。川沿いの古い街区図が表示される。橋。歩道。狭い通路。


「ヴェルフラードの都市は古い。地図に残っていても実際には管理が緩い通路があります。逆もあります。地図から消えているのに、現地では使われている通路もある」


ナディアが低く言った。


「そもそも、ミラージュ本人が来たとは限りません」

「代役ですか」

「声も顔も変えられる時代です。名乗りに価値はありません。重要なのは、こちらに名を名乗る必要があったことです。ミラージュという名前を餌にして私たちを動かしたい」


アルテミシアは、静かにうなずいた。


「では、相手の選択肢に乗るのではなく、相手が選択肢を提示しなければならなかった理由を探します」

「そうですね」


ナディアが端末を操作しながら言った。


「ですが、今この時点でこちらに見えているものは少なすぎます。レーヴェ本体へ強制査察をかければ、相手が言う通り証拠を焼く口実を与える。かといって、取引を蹴れば児童の所在も失う可能性があります」

「どっちにしろ受けるしかない、ということですか」


当直の分析員が言った。ナディアは即答しなかったが、悔しげな目元が何より物語っていた。


「受けたふりをする。十八時間の猶予を与える。ただし、その十八時間はこちらのものでもあります」


項が小さくうなずいた。


「端末、橘さん周辺の監視体制、レーヴェ関連法人の通信、例の弁護士の資料洗い直し、警察との調整。やれることはありますねぇ」

「行動を始めましょう」


アルテミシアの声で一同は一斉に取り掛かった。



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