取引の秤
国家憲兵局を出るころには、すでに昼を回っていた。この街にしては珍しく雲は流れ、明るい日差しが石造りの壁を照らしている。朝の霧は晴れ、壁を飾る蔦に残った雫もゆっくりと乾きはじめていた。
橘は、ヴェルフラードに行くと言った際にナディアから勧められた川沿いの店へ向かった。店というより、食事も出す小さなカフェに近い。古い石造りの建物の一階にあり、窓の外にはルリアール川が流れている。
席に腰を下ろし軽食を注文した。出てきたのは、ロールキャベツに似た煮込み料理だった。酸味のある葉で肉と米を包み、柔らかくなるまで煮てある。横に添えられている黄色いものは、トウモロコシの粉を粥状に練ったもので、このあたりではパンや米と同じような主食らしい。ヴェルフラードではありふれた昼食なのだろう。橘は水の入ったグラスへ手を伸ばした。だがグラスをつかむことはなかった。
背後の席に、一人の女が座った。
「こんにちは、橘さん」
橘は振り返らなかった。
「誰だ」
「ミラージュ、と言えば通じるかしら」
なるほど。真船が口にした名。レーヴェ公益保全財団の奥で、正式な役員名簿には出ず、使い捨ての認証と匿名連絡で人を動かしていたらしい女。
「こんな遠いところまで、人買いシステムを叩かれた借りを返しに来たか」
「いいえ。あなたにいい話があって来たの」
「いい話だと」
「どうせ、レーヴェへの強制査察くらい考えているのでしょう?」
ミラージュは囁くように言った。
「それを少し待ってほしいって話。そうね、今から二十四……いいえ、十八時間でいいわ。そうしたら、子どもたちを安全にそちらに引き渡す」
十八時間。おそらく手仕舞いにかかる時間だ。証拠を焼く。人員を逃がす。接続を切る。レーヴェの表側を残したまま裏側だけを畳む。
「どうかしら?」
ミラージュが訊いた。橘は前を向いたまま答える。
「俺の独断で決められるものではない。少し時間をくれ」
「ええ、構わないわ。連絡手段はお料理と一緒に出すわね」
「料理?」
「では、色よいお返事を待っているわね。色男さん」
ミラージュの声が、背中越しに少しだけ低くなった。
「また無計画に突入しますか。今度は義体化では済まないかもしれませんけれど」
橘の右手は、ジャケットの下にあった。拳銃はすでに抜かれている。体は前を向いたまま、銃口だけが背後の女へ向いていた。
見えているはずがない。だが、ミラージュは見えているように言った。
橘は小さく舌打ちし、拳銃をホルスターへ戻した。
「もし断ったら?」
「断る?構わないわ」
ミラージュは少しだけ笑った。
「すべてを灰にして、立ち去るだけよ。言葉通り、すべてを……ね。でも、私は無為に殺すのは嫌いなの。後片付けが面倒でしょう?」
そう言い残し、ミラージュは立ち上がった。
逃げるような足取りではなかった。視線を避けるでもない。店の床を当たり前の場所のように歩き、扉を開けて外へ出ていく。
いつの間にか湧き出ていた霧が、一瞬で女の輪郭を薄めた。次に見た時にはもういなかった。しばらくして給仕が皿を運んできたが、料理のほかに覚えのない黒い端末が置かれていた。
プリペイドの通信デバイスだった。画面には新着メッセージが一件。
橘は、指先で画面を点けた。
――一時間待つ。
それだけだった。橘は端末から手を離した。
給仕が置いていった皿から湯気が立っている。昼食は温かく、店内の空気は静かで、窓の外では灰色の川がゆっくり流れていた。
橘はスプーンを手に取り、ロールキャベツに似た料理を一口運んだ。
目線を料理に向け、そのまま食事を続けながら義体内通信を起動した。通常の局内回線ではない。労働局総裁直通の緊急回線だ。
『アルテミシア様』
応答までの間は、ほとんどなかった。
『橘さん。何かありましたか?』
アルテミシアの声には、幾分かの緊張があった。この回線を使う事態は平時ではない。橘が軽い報告や相談で鳴らす回線でもない。彼女はそのことを理解していた。
橘は食事を続けながら、端的に報告した。
ヴェルフラード国家憲兵局で聞いた瑞海の話。グラウベルク機構との摩擦。旧ウルガンクス系外郭人材への資金流入。
憲兵局を出た後、川沿いの店で接触してきたミラージュのこと。レーヴェへの強制査察を十八時間待てという要求。その対価として未移送の子どもたちを引き渡すという提案。
拒否すれば、証拠も対象もすべて灰にするという脅し。料理とともに置かれた端末。
アルテミシアは、黙って聞いていた。橘は最後に言った。
『返答猶予は一時間です。連絡手段は、料理と一緒に置いていきました』
沈黙があった。長くはないが、アルテミシアが怒りを飲み込むには十分な長さだった。
『なるほど。わかりました』
声は静かだった。アルテミシアは自分の眉間に皺が寄っていることに気づいた。指先でそこを軽く揉む。
『ただ、待ったところで相手が約束を守る保証はありません。相手の提示した選択肢を、そのまま受け取る必要もありません』
『どうします』
『こちらでも情報を集めます。神山さんにも共有しましょう。橘さんはその端末をこれ以上操作せず、周囲の監視を続けてください。何かわかったら連絡します』
『了解』
『橘さん』
『はい』
『無茶はしないでくださいね』
橘はスプーンを持つ手を、少しだけ止めた。
『そのための直通回線ですので』
アルテミシアはそう言った。橘は短く息を吐いた。
『了解しました』
店の窓に川と自分の顔が映っており、その背後にはもう誰もいない。
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労働局本局のCICに緊急招集がかかった。
「ナディア上席技官、CICに責任者を招集してください。すぐに」
「了解しました」
アルテミシアは執務室から直接作戦室へ向かった。廊下を進む間にも端末へ次々と通知が入る。神山への秘匿連絡。ナディアへの呼び出し。項主任技官への解析依頼。
CICの扉が開く。
まだ全員は揃っていない。それでも、当直の通信員と分析員が即座に席を埋めていた。大型モニターにはオルセア連邦内の法人関係図、レーヴェ公益保全財団、海辰系企業、瑞海国際通商ホールディングス、そして真船から押収した端末の保全ログが並ぶ。




