次の灯へ、迷わぬように
書面に残せることと、書面に残すべきではないこともある。
橘はクラウディアの工房で義体調整を受ける予定があったため、それならばヴェルフラードへは自分が直接伺うと返答していた。
案内されたオフィスは庁舎の奥まった位置にあった。廊下の空気は冷たく、足音だけが石壁に小さく返る。壁はこれまでに幾度となく足音を数えてきたのだろう。あちこちに補修の跡がみられる。
しばらく歩くと、重く、時代を経た扉が橘を出迎えた。扉には古いすりガラスが据えられており、その向こうからオフィスの光がぼんやりと漏れている。
今日は珍しく、雲の切れ間から陽が差しているらしい。灰色の国の光はそれでも白く、現実感の乏しさが淡く残る。案内してくれた職員が扉をノックし、来客を告げた。
「入ってくれ」
短い返事があった。職員は扉を開け、橘へ小さく身を引く。
「どうぞ」
橘は一礼し、オフィスへ入った。
ジルベール・オルコットは、机の上の書類から顔を上げた。細身の老人だった。背筋はまっすぐで、年齢よりも軍人としての振る舞いの方が先に目に入る。灰色の髪は短く整えられ、制服の襟元に乱れはない。
彼は書類を眺める手を止め、立ち上がった。
「橘監督官だな」
「はい」
ジルベールは机を回り込み、右手を差し出した。
「ジルベール・オルコットだ。遠いところをよく来てくれた」
橘はその手を握り返した。
「こちらこそ。情報提供に感謝します」
握手を終えると、橘は促される前に本題へ入った。
「早速ですが情報とは」
ジルベールはわずかに笑った。急かされたことを不快に思った様子はない。
「旧ウルガンクス共和国の連中には、我々も目を光らせていてね」
彼は机へ戻り端末ではなく、紙の薄いファイルを一冊手に取った。
「今回、君の国に入っていた者たちについても、いくらかは情報があった。そこはすでに共有済みだ。だが、秘匿指定をかけたとしても、記録に残すのは少々はばかられる内容がある」
橘は黙って続きを待った。ジルベールはファイルを開かないまま、指先で表紙を軽く叩いた。
「おそらく、連中の資金源は瑞海だ」
橘の目がわずかに動いた。
「瑞海……まさか、瑞海国際通商ホールディングスですか」
「そのもの、とまでは言わん」
ジルベールは短く首を振った。瑞海国際通商ホールディングスは、華栄語圏の沿海通商資本を中核とする巨大外来企業群だ。登記上の本拠は華栄人民共和国沿海部の大港湾都市に置かれるが、船籍、保険、金融、持株機能は複数の港湾都市と国外法人に分散している。
「少なくとも、いま口に出せる形ではな。だが、オルセアにも後ろ暗い仕事の足場を作りたい連中の一部が、旧ウルガンクス系の亡霊へ資金を流していた可能性が高い」
「その情報の出所は信用できるのですか」
橘は即座に訊いた。ジルベールは肩をすくめ、軽く両手を上げる。
「信用はしている。だが、公式の記録に載せるに足りないだろう」
「情報提供者ですか」
「そう受け取ってくれていい。旧ウルガンクスの外へ逃げた者の中には、まだ国家と企業の区別をつけて話せる者がいる。そういう者から、ときどき断片が入るのさ」
ジルベールはそこで一度言葉を切った。
「断片だ。証拠ではない。だから君たちの正式な捜査資料に混ぜるべきではないだろう」
「いえ、それでも感謝します」
橘は短く答えた。
「こちらでも、国外の企業群が絡んでいる疑い自体は局内で上がっていました。なるほど。そうなると、今回の件の強引さにも納得がいきます」
「地場の企業群ならやり方が違うと?」
「少なくとも、国家警察の特殊部隊を相手に、あそこまで大立ち回りを演じるとは考えにくい。適当なところで手打ちにするはずです。港湾と政治の距離感を知っている連中なら、引き際も知っている」
「なるほど。国外の無法者なら加減を間違えることもあるということか」
ジルベールはゆっくりとうなずいた。
「最近では、こちらでも瑞海に関わる揉め事が増えていてね。グラウベルク機構の連中も、かなり神経を尖らせているらしい」
「グラウベルク公民共業開発機構ですか」
ヴェルフラードを中心とする経済圏に根を張る企業群でとくに北東部から旧ウルガンクス方面にかけて強いとされている。
ジルベールは、紙のファイルを指先で軽く押さえた。公民共業を掲げ、国境地域の復興、輸送、保全、重工業、義体化技術、ネットワーク認証基盤の構築までまとめて担っている。半官半民の企業群と言えば聞こえはいいが、実際には企業群と国家の癒着そのものに近い。
多かれ少なかれ、国家権力と企業群が関係を持つのは洋の東西を問わないということだろう。
「瑞海が親和鉱石の資源回廊と、内戦状態の旧ウルガンクス共和国の復興利権へ手を伸ばせば、当然面白くない。以前はある程度の棲み分けができていたのだがね」
「ああ、旧ウルガンクスは親和鉱石の鉱脈があるせいで国が割れたんでしたね。親和鉱石の高止まりもあってなりふり構わないのかもしれませんね」
ジルベールは、少しだけ目を細めた。
「瑞海は外洋航路と資源回廊。グラウベルクは国境鉄道と保全、復興事業。互いに面白く思わない部分はあっても、正面から食い合うほどではなかった」
「それが崩れた」
「そう見える。瑞海の内部で、何かごたごたでもあったのかもしれんな。外様連中が以前より強引に動いている気がする」
ジルベールはそこで、ファイルから指を離した。
「そういう懸念もあって、わざわざご足労いただいたわけだ」
「こちらとしても、聞く価値のある話でした」
「それは何よりだ。まあ、かつての優秀な部下を持っていかれた意趣返しもあるがね」
そう言って、ジルベールは人好きのする笑みを浮かべた。橘は苦笑し席を立った。
「ナディアが聞けば、嫌な顔をしそうです」
「だろうな」
ジルベールも立ち上がり、再び手を差し出した。
「霧深くとも、次の灯で」
霧深いヴェルフラードで、慣習的に使われる別れの言葉だった。道が見えにくい土地で、次の灯の下でまた会おう、と願う言葉である。橘はその手を握り返し、その対になる句を返す。
「次の灯へ、迷わぬように」




