ヴェルフラードの聖女
クラウディアは外套を折りたたみながら、橘の右腕を一瞥した。
「特に歩き方でわかります。左半身でかばっているのでしょう。右側の制御系に過負荷の痕跡がある。安全域を越えましたね」
「仕方がない。任務だ」
「で、制限を解除した回数は?」
「……三回だ」
「もっとでしょう?」
橘は答えなかった。クラウディアは記録するように続けた。
「義体は消耗しない、と思っているなら、それは間違いですよ。金属と複合繊維は疲労しますし、接合部は摩耗します。神経同期ユニットの較正もずれていきます。報告が遅れるほど対処は増え、私の機嫌も損ないます。なんなら動かすたびに各部の関節から、アルテミシアお姉さまに愛を囁くようにして差し上げてもいいですよ?」
「わかったわかった……だから予定外ではあるが見てもらいに来た」
クラウディアは少し間を置いた。
「そうですね。でも、来ればいいというものでもないのですが」
それだけで、話は終わった。
――乗り切ったか。
最初の山場を越え橘は小さく息を吐いた。
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検査室は狭く、照明は白く、どことなくグリスと消毒液の臭いがした。どこの病院よりも清潔だが病院らしくない。医療機器というより計測機器が並んでいる。橘は検査台に腰掛け、上着を脱いだ。
クラウディアは何も言わずに作業を始めた。
義体化された腕の接合部。肩甲骨の義体側連結機構。肋骨の一部を置き換えた複合素材の状態を確認し、体幹部神経同期ユニットの較正ずれを検出する。それぞれを確認し、端末に数字を打ち込む。橘は視線を壁の一点に固定してそれを黙って見ていた。
「左の接合部に微細な摩耗があります。致命的ではありません。ただ、同じ使い方を続ければ、半年以内に交換が必要になります」
「わかった」
「痺れは」
「右の指先だ」
クラウディアは端末に打ち込んだ。橘は壁を見ていた。
「……夢は……見ますか」
橘は少し間を置いた。
「何の関係がある」
「神経同期の状態を見るための質問です。関係はあります」
「たまに見る」
「内容は」
橘は答えなかった。
扉を蹴破る音。突入した部屋。床に座らされた少女。胸に巻かれたベスト。残り時間がないことを示すタイマー。閃光。衝撃。鼓膜の奥を白く塗りつぶす無音。
あの日の事件。その夢を見る日は義体と生身の境目が痛む。
この体になった理由であり、クラウディアの工房へ来るようになった理由でもある。夢というには輪郭が硬すぎ、記憶というには何度も同じ場所で途切れすぎた。
結局、橘は何も言わなかった。
クラウディアは端末から顔を上げた。異論を唱えるでも、引き下がるでもない目だった。ただ、いつもの観察だけではないものがそこにはあった。
「……今も、あの夢を?」
橘は小さく首を横に振った。否定なのか、答えたくないという意思表示なのか自分でもよくわからなかった。
「そう……ですか」
クラウディアはそれ以上は追及せず、そのまま作業へ戻った。
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それから検査は二時間かかった。いくつかの部品が交換され、神経同期パラメータが現在の摩耗状態に合わせて再較正された。作業中、クラウディアはほとんど喋らない。
質問する時だけ声が出る。感覚の左右差はどうか。温度の感知に違いはあるか。重いものを持った時の感触は変わっていないか。橘は短く答え続けた。最後にクラウディアは手を止めた。
「一つ、お願いがあります」
「聞くだけなら」
「神経同期系の神経伝達ユニットを、新しいものに交換したい。今ここにはありません。二日ほど滞在できませんか」
橘はこの後のスケジュールを思い出すよう目を閉じる。クラウディアは続ける。
「現在の較正で動かすことはできます。ただ、あまり余裕がありません。このタイミングで新しいユニットに替えた方が、神経同期の遅延も接合部への負荷も小さくなる」
「ああ。どのみち国家憲兵局に行く予定だし、調べ物のために時間は取っている」
クラウディアは橘の顔を見た。何かを測るような間があった。
「国家憲兵局……では、それまでには用意しておきましょう」
「よろしく頼む」
「記録しました」
彼女は端末へそれを打ち込んだ。それだけだった。納得した様子でも、不満そうな様子でもない。記録するべきことを記録した、それだけの顔だった。
帰り際、橘は玄関で外套を受け取りながら、ふと気がついた。今日のクラウディアは、いつもより声が柔らかかった。何がいつもと違うのか橘には言語化できなかった。ただ違和感ではなかった。橘は外へ出た。時刻は昼を過ぎ、霧は晴れたものの灰色の空は変わらず低く垂れていた。
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翌日、橘は国家憲兵局を訪れていた。そこは古い軍の庁舎を転用した、石造りの無骨な施設だった。この町はどこも建物自体が時間を刻み込まれ、歴史の長さを主張しているかのようだ。
正門の脇には衛兵詰所があり、一人の衛兵が立哨中であった。門から庁舎正面まで、昨日と同じ濡れた石畳の道がまっすぐ伸びている。戦時中の名残なのか、敷地の端には低いコンクリート造りのトーチカがいくつか残されていた。銃眼は塞がれ、苔をかぶり、いまはただ時間を刻むだけの遺物になっている。
それでも、この施設は歴史的建造物ではなかった。敷地の導線は直線的で、遮蔽物は少ない。来訪者は門から庁舎まで、衛兵と監視カメラの視線の中を歩かされる。古い設計に見えて、いまも人を測るための配置だった。
橘は総合受付へ向かった。
「十時にアポイントを取っている。ジルベール少将に取り次ぎを頼みたい」
受付の職員は端末へ視線を落とした。
「お名前をうかがっても?」
「オルセア連邦国家労働局の橘だ」
「承知いたしました」
短い確認の後、すぐに奥から案内役が現れた。受付脇の認証ゲートが開き、橘は庁舎の内側へ通される。
ジルベール・オルコット少将。
ナディアのかつての上司であり、ヴェルフラード国家憲兵局で国外事案対応と特殊案件の調整を扱う人物だった。橘がここへ呼ばれたのは、旧ウルガンクス共和国の関係者の照会について、現地側から補足説明を行いたいという連絡があったためである。情報そのものは、すでに正規の照会手続きで提供されている。




