残された線
真船は、所轄警察の警察官に押さえ込まれていた。
濡れたコンクリートの上に膝をつき、片腕を背中側へ回されている。背広は裂け、袖口は焦げ、片方の靴は踵が外れていた。法廷で言葉を武器にしていたはずの男は、今は息を吸うだけで精一杯だった。
警察犬はハンドラーの横で低く息を吐いている。橘の宣告のあとも真船の目だけはまだどこかを探していた。
誰かが来る。誰かが助ける。そう信じている目だった。だが、暗がりの向こうにいた回収班はもういない。暗視装置の緑の光も、足音も、銃口も消えていた。
「警察が、私を押さえた……」
真船はかすれた声で言った。
「労働局に私を尋問する権限はない」
「尋問じゃない」
橘は淡々と言った。
「緊急聴取だ。SAGと神山管理官が来るまでの短い間だけ、所轄警察の立会いで話を聞く。目的は供述調書じゃない。まだ消えていない証拠と、まだ移されていない被害者の保護だ」
所轄の警部補が、わずかに顎を引いた。
「身柄は警察だ。労働局は現場情報の確認だけだ。記録は残す」
真船は笑おうとした。失敗した。
「黙秘する」
「構わない」
橘は真船の前にしゃがみ込む。
「お前を守っていた連中は全員押さえた。護衛もだ。事務所も爆破して証拠を消したつもりだったんだろうが、残念だったな。すでにバックアップを取っている」
全てというのははったりだったが真船の喉が、小さく鳴った。
「黙秘してもいい。好きにしろ」
橘は続けた。
「だがよく考えてみろ。お前を誰も迎えに来なかった。切り捨てられたんだよ。お前は」
真船の目が揺れる。警部補が橘を見たが止めはしなかった。ここまで追い込んだのは労働局であるという配慮だろう。そして橘もそれ以上は踏み込まなかった。言うべきことは言った。あとは、別の声が必要だった。通信が入る。
『橘班長』
アルテミシアの声だった。
「総裁」
『真船弁護士と直接話します。外部スピーカーを開いてください』
「了解」
橘はヘルメットの外部スピーカーを開いた。
『真船弁護士。聞こえますね』
真船は顔を上げた。
「聖女……労働局総裁か」
『はい。アルテミシア・レインです』
声は静かだった。
『あなたの黙秘権は尊重します。弁護士であるあなたなら、その意味もよくご存じでしょう』
「なら、話すことはない」
『あなた自身の弁解を求めているのではありません』
真船の口元が止まる。
『まだ消されていない証拠。まだ逃げている関係者。そして、まだ保護されていない被害者について聞いています』
アルテミシアは、CICのモニター越しに真船を見ていた。ヘルメットカメラの映像は粗い。水滴と粉塵で滲んでいる。それでも、真船の顔色が変わったのは分かった。
『あなた個人に、ウルガンクス共和国崩壊後の汚れ仕事を請け負う専門家、それも特殊戦のベテランへ直接つながる伝手があったとは考えにくい』
真船は黙る。
『弁護士として顔が広い、という話では説明が付きません。彼らは完全に裏闇に巣食う側です。人身売買、資金洗浄、偽装後見、警備会社、そしてSWAMP。どこかにそれらを束ねてあなたへ渡した窓口がある』
「そんのものは推測だろう」
『そうとも言えませんよ?あなたのデータが語ってくれるでしょう。でも協力したほうが良いと思いませんか?だから、あなたに確認しています。SWAMPの本当の雇い主を言いなさい』
真船は唇を舐めた。
「知らない」
『嘘ですね』
即答だった。真船の眉が動く。
『あなたは弁護士です。知らない相手のために、ここまでのリスクを取る人間ではない。少なくとも、支払元、連絡窓口、契約名義、いずれかは把握している』
「私は、依頼人の秘密を……」
「まだ弁護士のつもりか?」
橘が低く言った。アルテミシアが続ける。
『今なら、こちらであなたを協力的であったと報告することができる』
真船の目が、わずかに動いた。
『あなたはSAGに被害を出しすぎた。身内に対する被害を許すほど警察は甘くありません。おそらく苛烈な取り調べになると思います。その上あなたは数ある被疑者の一人です。ですが今なら、あなたを重要参考人として扱う余地があります』
「警察官の前えで独自に司法取引か?越権だ」
『そうでしょうね。検察との協議も必要です。私が単独で確約することはできません』
そこは飾らなかった。
『けれど、あなたが今ここで有用な情報を出すなら、労働局はその価値を正式に記録し、国家警察と検察に申し入れます。このまま警察に捕まるよりも、良い条件を引き出せる可能性があります』
「可能性」
真船がかすかに笑った。
『確約できないものを確約するほど、私は雑ではありません』
アルテミシアの声は冷えていた。
『その代わりできることは言います。あなたの身柄保護。供述価値の公式記録。検察への申し入れ。そして、あなたが証拠保全と被害者保護に協力した事実の明文化』
真船は黙った。水の落ちる音だけがした。
『あなたはもう企業群には戻れません。お分かりですよね。ですが、法の側へ戻る道はまだ残っています』
「法の側」
真船は、乾いた声で繰り返した。
『差し出すべきものは三つです。SWAMPの本当の雇い主。企業群側の窓口。まだ保護されていない被害者の所在』
真船は目を伏せる。橘は動かない。警察官も動かない。警察犬だけが低く鼻を鳴らした。
「……名前は知らない」
真船が言った。ナディアがCICで顔を上げる。アルテミシアは黙って続きを待った。
「本当だ。直接の名前は知らない。連絡は、いつも財団経由だった」
『財団名を』
「レーヴェ公益保全財団」
項技官の指が、端末の上で止まった。
「出ましたねぇ」
ナディアは即座に別回線を開く。
「法人登記、役員、関連口座、警備会社との契約履歴を洗って。福祉局関係の補助金とも照合」
真船は続けた。
「窓口は、財団の危機管理担当だ。名前は正確には知らない。名刺もないし、連絡はワンタイムの認証情報で来る。ただ呼び名はあった」
『呼び名を教えてください』
「ミラージュ」
アルテミシアは視線を落とす。ミラージュ。おそらくコードネームだ。だが、残された線としては十分だった。
『被害者の所在は』
真船は目を閉じた。
「港湾区のハブ|《集積所》はもう一つある。第七倉庫の地下。正式には冷蔵設備の保守区画だ。今夜、国外顧客への移送予定だった」
ナディアが息を呑む。
「移送先は」
橘が問う。真船は、しばらく黙った。
「南桟橋の外洋輸送船」
『船名は』
「リュシオル。船籍管理は海辰遠洋運輸。表向きは冷凍貨物と補修部材の混載船だ」
ナディアの指が止まった。
「海辰……」
新華月警備の秘匿連絡を中継していた保守会社。その社名をCICの誰もが覚えていた。海辰設備管理。名前が似ているだけではない。項がすでに法人登記を引き始めていた。
「出資元が同じですねぇ。海辰遠洋運輸、海辰設備管理、どちらも海辰通商株式会社の孫会社でさぁ」
点が、線になった。レーヴェ公益保全財団、真船法務事務所、新華月警備、海辰設備管理。そして南桟橋の外洋輸送船。別々の法人名義をまとっていたものが、同じ地域企業連合の外縁へ寄っていく。
アルテミシアは、すぐに言った。
『ナディアさん、神山管理官へ共有。所轄警察にも保護要請。港湾管理局へ南桟橋の出港停止をかけてください。海辰遠洋運輸と海辰通商株式会社の関連資料も保全対象に入れます』
「了解」
『項主任技官』
「聞いてますよぉ」
『第七倉庫の監視、搬送記録。取れる範囲で抑えてください。越権になる部分は、ログだけ残して神山管理官へ渡します』
「はいはい。綺麗にやります」
アルテミシアは、もう一度真船へ向き直る。
『真船弁護士』
真船は返事をしない。
『今の供述は記録しました。あなたの協力として扱います』
「私は」
真船の声は震えていた。
「私は、殺されるのか」
橘は答えない。アルテミシアが答えた。
『殺させません』
短い言葉だった。
『あなたには生きて償ってもらわなければならない』
真船はようやく顔を伏せた。遠くで、サイレンが近づいてくる。
SAGの残存部隊も、国家警察の捜査班も、検察もすぐにこの場へ雪崩れ込むだろう。介入班の戦闘は終わりつつあった。だが、労働局の仕事は終わっていない。
真船は中心点だった。しかし、中心点は終点ではない。そこからまだ線が伸びているのだから。




