7分前
プーカの声が薄く笑った。
『彼女の造られた目は特別製らしいですよ』
片眼だけを狙撃用に調整された補綴眼。だが、それをもってしても、並の腕でできる芸当ではない。
UAVからの映像は途切れたが、それでも突入の流れは変わらない。
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プーカのドールが送ってくる映像は、低い視点のものだった。
排水溝の縁。倉庫外壁の陰。人の目では見落とすような角度から、セーフハウスの周囲の様子が映っている。そのドールは、もはや人間のふりをしていなかった。普段のように社交の場へ紛れ込み、笑い、礼をして、相手に生身だと錯覚させるための振る舞いではない。パール外装の下にある本質は、作戦支援機である。人間らしく振る舞うために抑えていた関節制御と握力を、プーカは遠慮なく発揮させていた。
壁面のわずかな突起を支点にして、指先だけで体を引き上げる。人体ではありえない角度で肩を畳み、換気口の内側へ滑り込む。膝を逆に折るような姿勢で配管の隙間を抜け、屋根裏へ上がる。通常運用より出力は落ちる。擬態用のドールは、本格的な戦闘支援機ほど重くも強くもない。それでも、中身は人間ではない。監視、潜入、追跡、通信中継、視覚共有。そのために作られた機械だった。
何も知らないものが見たならば、その動きは完全にホラーであり、しばらくは夢に出そうな在り様ではあった。
映像が切り替わる。屋根裏から見た室内。断熱材の裂け目越しに聞こえる会話、古い配線を伝い移動する。埃とネズミの糞、クモの巣がそこかしこにみられた。
登録上は空き倉庫。だが、搬入口に新しいタイヤ痕がある。側面の非常扉には内側から補強が入っている。屋上の空調機に偽装した通信アンテナ。裏手には古い地下連絡坑へ通じる蓋。ただの空き倉庫ではないことは明白だった。
「逃げ道が多いですね」
ナディアが言った。
「だからセーフハウスなのでしょう」
アルテミシアは答えた。プーカの声が回線に戻る。
『ご覧いただけますか。白い車両の後部座席。あれが真船弁護士です』
映像が拡大される。一瞬だけ、男の横顔が映った。整った髪。疲れたように見える目元。だが、その動作は落ち着いている。爆破された事務所から逃げてきた人間の顔ではない。
その隣に、肩幅の広い男が立っていた。ヤロスラフ・コヴァチ。さらに奥、倉庫の扉の陰に女がいる。黒い上着。細い手袋。顔は見えない。だが、ナディアは息を吐いた。
「篠崎京子」
『イルゼ・グラウです』
プーカが訂正した。
『あちらの名で呼んで差し上げた方が、彼女も喜ぶでしょう』
「趣味が悪い」
ナディアが言う。
『お褒めにあずかり光栄です』
プーカはいつもの調子で返した。
『通信が入りました。部隊の回収を要請しています。暗号化は古いですが、癖が旧ウルガンクス軍系のものです。到着まで、長く見て二十五分。短ければ十五分』
プーカは、視覚情報をそのまま労働局へ流していた。外周だけではない。内部の人数、武装、積まれたオフィス機器のバリケード、床に散らかる書類だったもの、完全ではないが、突入前に得られる情報としては大きすぎる。
「ずいぶん協力的ですね」
ナディアが言った。
『ええ。今夜は特別です』
プーカは笑った。いつもの軽い笑いだった。だが、その声色は奥で何かが燃えていた。
「橘さんたちは」
「輸送機で移動中。ETA7分」
ナディアが答えた。
「警察の再展開は」
「神山管理官からの情報では最短二十分。国防軍の対テロ部隊も出撃体制に入るようです」
アルテミシアはうなずいた。
「介入班が時間を稼げれば……」
「はい、おそらく間に合います。ただし、かなり危険でもあります」
ナディアは短く答えた。誰も、その言葉を軽く扱わない。画面の中で倉庫の扉が閉まり、奥へと真船の姿が消える。
アルテミシアは、祈りの残響を胸の奥に感じていた。神の視線がまだある。優しく、無邪気で、残酷な視線。彼女はそれを振り払わなかった。振り払えないことを、知っていた。
だから、正面から受けた。
「プーカさん」
『はい、我が麗しの聖女様』
「無理を言いますが、監視を続けてください」
『もちろんです』
「グロモワ上席技官」
「はい」
「神山管理官へ、橘班が到着次第、位置情報を共有。警察側の再展開時に誤射が出ないよう、IFFを忘れずに」
「了解」
「法務部長」
「根拠条項は起案済みです。事後報告書も、もう書き始めています」
「ありがとう」
アルテミシアは画面を見た。セーフハウスへ向かう労働局のS/VTOL輸送機が、夜の市街を低く滑っていく。機体下面の投下灯が、倉庫群の屋根を白くなぞる。下には保守道路の白線が細く流れ、暗い構造物が黒い波のように続いていた。
小型偵察機が二つの黒い点になって先行し、倉庫の外壁と屋上をなぞる。二号機は屋上縁へ機体を寄せ、短いタラップを引っかけるように展開する。第二班はその数秒の足場を使って屋上へ流れ込み、ドアノッカーは非常口へ向かう。非殺傷制圧機は第一班の降下地点へ続く。EMP機は沈黙したまま、起爆通信と警備機械の反応を待っていた。
車両では間に合わない。SAGの再展開も待てない。ならば、空から囲い込むしかない。
その先に帳簿外の退避路がある。法の外へ逃げる者たちがいる。そして、それを法の内側へ引きずり戻すために、祈りを使ってしまった聖女がいる。
アルテミシアは、両手を膝の上で握った。指先は震えていた。だが、声は震えない。
「介入班、突入待機」
橘の声が返る。
「対象施設を視認」
一拍。
「これより封鎖に入る」
画面の中で、夜の倉庫が沈黙していた。沈黙の奥で、危険な戦が始まろうとしていた。




