労働局にようこそ
橘と呼ばれた指揮官が扉を蹴り飛ばしている頃、そこから30㎞離れた軍民共用港で事件は進んでいた。
港湾施設管理部の係官の遠藤は、ろくでもないミスの後処理を終えて事務室を出たところだった。原因を作った上司はとっくに帰っている。
靴底が古びた鉄の階段を叩く音だけが、廊下に反響した。
港の夜は昼とは異なる顔を見せる。昼のあいだは、怒鳴り声と警笛とフォークリフトの音が引っ切り無しだ。だが夜は違う。大型搬送車の低い唸り、コンテナ固定具の金属音、遠くのクレーンが軋む気配。それらが海風に押し戻されて、薄暗い岸壁のあいだに溜まっていく。
——全部ふざけてやがる。
悪態をつきながら三階の窓の外へ目をやった時、停泊区画C-7に動きがあった。
今日、夜間の搬入はないはずだ。だが白いバンが停まっている。そこへ、警備ロボの保守会社の大型コンテナ搬送車が、間を置かずに同じレーンへ入ってくる。遠藤は立ち止まり、受入予定を手元のデバイスで確認した。保守部材一式の搬入許可——正式なものだ。電子申請上は整合しているものの、承認した記憶がない。
――確認したほうがいいだろうか……
僅かに逡巡しC-7レーンに向かった。
しかし作業員に近づこうとして、とっさにコンテナの陰へ身を隠すこととなる。
白いバンの後部が開いた。
子どもが二人降ろされた。年は十に満たないだろう。一人は裸足だった。もう一人は誰かの肩に預けられぐったりとしていた。
乱暴ではないが丁寧でもない。物を動かす時の速さで、子どもを動かしていた。
保守会社の作業員が大型コンテナの封印を外す。保守資材を先に下ろし、奥のスペースを空け、そこへ、子どもたちを移す。
遠藤は息を止めていた。
「記録は後で合わせればいい。さっさと閉めろ」
扉が閉まる。固定具が噛む。封印コードが打ち直される。
——合わせる。何を。
遠藤はその場で通報しなかった。知るべきではないことを知った人間がどうなるか、港に長く勤めている遠藤は身に染みている。それに警察に持ち込めば港湾管理へ照会が行く。自分の名前も端末履歴も、その日のうちに洗われる。
だから持ち帰った。報告するには危険だが、放置するには夢見が悪い……
手の震えが収まるのを待ち一晩考えた。
翌朝、彼は労働局のエントランスの前に立っていた。
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国家労働局
近年、国際的な企業複合体による既存の規制すべき側の機関との癒着、骨抜化、圧力によるもみ消しなどが頻発、労働者の生命や権利軽視が横行していた。
それらを見かねた聖女アルテミシアの働きかけで設立された行政機関だ。
――聖女アルテミシア、愛と戦という権能をつかさどる神に愛された女。
――神はいる。俺たちのような木っ端労働者が目にすることはないが。
彼女の周りに集まったのは清廉な支持者ばかりではなかった。勝ち馬に乗りたい者。聖女の名で箔をつけたい者。彼女を都合のいい旗印にしようとした者。そうした有象無象を、彼女は追い払うのではなく、呑み込み、まとめ上げ、シンパとして飼いならし労働局という組織にしてしまった。
真偽のほどはハッキリしないが、もし事実なら、アルテミシアは美しいだけのお飾り聖女ではない。
――なんだか三文記事のようだ。
遠藤はそう思い鼻で笑った。
労働局の本局は、威圧感のある建物ではなかった。新しいが派手さはない。
企業群の持つガラス張りの大庁舎とも、古い省庁の石造りとも違う。急ごしらえの実務棟を無理やり積み上げたような、機能重視の建物だった。
無骨なコンクリート造のエントランスは、明るい朝の光が差し込んでいた。昨夜のあの光景との落差になんだか現実感が薄れるような気がした。
正面玄関のわきには警備ロボが直立不動の形で立っている。自動ドアをくぐり正面受付へと向かう。
受付には一人のスタッフが座っており、うつむき気味にカウンターの端末を操作していた。
「あのすいません……」
声をかけると、うつむいていたスタッフが慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「労働局へようこそ!」
にこやかに言った。慌てたのを取り繕っているのが筒抜けだ。だがそんな彼女を見た遠藤は少したじろいだ。
白に近い金髪。磨かれた氷のような碧い目。
窓口でペンを持つ姿だが妙に馴染んでいる。まるで、美術館の神像が書類仕事を覚えたみたいだった。来る場所が間違っているのではないか、と一瞬思った。
もっと殺伐としていて、もっと高圧的で、窓口らしいものを想像していたからだ。
それに加えてこの顔……どこかで——
「あの……?」
神像が固まった遠藤を見て、困ったように眉を下げる。
「総裁!? また窓口に出てるんですか!」
制服姿の若い職員が、半ば駆けるように飛び込んでくる。遠藤は固まった。
「総裁」と呼ばれた女は、少しだけ困ったように目を丸くしてから、遠藤の方へ向き直った。
「気にしないでください」
気にしないでよい単語ではなかった。思い出した
——国家労働局総裁。愛と戦の聖女。アルテミシア。
ニュースや公聴会映像で見た顔が、今、窓口の向こうに座っている。
「あの……聖女アルテミシア様……ですか」
「えーと……そうです……すみません」
アルテミシアはばつが悪そうに目を背けながら言う。その後ろで若い職員が頭を抱えている。
「では、遠藤さん」
何事もなかったように、話を進めることにしたようだった。
「奥へどうぞ。お話を聞かせてください」
ここへ来てよかったのかどうかは、まだわからなかった。ただ、もう引き返せないことだけは、はっきりしていた。




