祈り、あるいは呪い
SAG以外の銃器犯罪対策課のような部隊を回すにも、国防軍へ応援を要請するにも時間がかかる。真船たちが真に安全圏へ抜けるまでに残された時間は少ない。そして、こちらには現地情報をリアルタイムで共有する協力者がいる。
危険度は高い。それでも、いま最短で展開できるのは、待機させていた橘たちだった。
アルテミシアは息を吸った。
「介入班を出します」
法務部長が目を細める。
「総裁、自体がひっ迫している中、直接介入するのは……」
「目的は、真船恭介の身柄確保、証拠保全、危険武装集団の無力化。名目は緊急保護介入権、証拠保全権、危険施設封鎖権の複合行使です」
「だとしても高脅威案件です。単独突入は、介入班の運用原則から外れます」
「わかっています」
アルテミシアは静かに言った。
「ですから、制圧完遂ではなく逃走阻止を主目的にします。国家警察の再投入まで足止めします。、証人、記録媒体がある場合は保護と保全を優先。危険要員は無力化。必要なら、現場判断で撤退を許可します」
法務部長は、しばらく黙っていた。それから、小さく息を吐く。
「詭弁ですね、理屈は立ちますが……」
「理屈が立つなら問題ありません」
「ですが、理屈が立つことと、部下が生きて戻ることは別です」
「はい」
アルテミシアはうなずいた。その声が、少しだけかすれた。
「だから……祈ります」
作戦室の空気が変わった。ナディアの手が止まる。法務部長が顔を上げる。橘は目をつぶり眉間にしわを寄せる。アルテミシアは積極的に祈らない。それは労働局の古い職員なら知っている。
聖女には祈りにより神に与えられる恩寵がある。だが、それは便利な道具ではない。
軽いものなら、負荷は時間とともに薄れる。疲労、頭痛、感情の鈍り。アルテミシアの場合なら、敵味方の線引きが少しだけ明瞭になり、他者の恐怖への共感が少しだけ薄くなる。その程度なら眠れば薄れ、時間が経てば自分の心の形を取り戻せる。
だが、大きな恩寵を求めるとなると話は違う。強い祈りは、聖女の内側に消えない傷を残す。肉体ではない。記憶でもない。もっと奥にあるものだ。人としての柔らかい部分が、神の権能に触れるたび、ほんの少しずつ変えられていく。
愛と戦の神の力は、味方には守護として働く。恐怖に足を取られる時間を短くし、意思疎通を滑らかにし、コンマ数秒の判断を研ぎ澄ませる。急襲作戦では、それだけで生死が分かれる。
だが同時に、敵対者には不寛容として働く。照準がわずかに遅れる。指示の理解が一拍ずれる。曲がるべき角を瞬間迷う。引き金にかけた指が、ほんの少し重くなる。日常であれば誤差で済む。だが、今夜のような作戦では、その誤差は十分に刃だった。
祈りは、細かな事情を斟酌しない。守るものと、阻むもの。救うものと、排すべきもの。その線を、神の尺度で引く。だから聖女に必要なのは、強く願うことではない。むしろ逆だ。
怒りを燃やしすぎてはいけない。恐怖を握り潰してはいけない。救いたいという思いさえ、強すぎれば祈りを届けすぎる。
愛が強すぎれば、守護は囲い込みになる。怒りが強すぎれば、戦の理は排斥へ傾く。罪悪感が強すぎれば、自分自身を代償として差し出しかねない。
だから、彼女は祈る前に必ず心を整える。怒りに名をつける。恐怖に名をつける。憎しみを否定せず、しかし祈りの芯には据えない。神に食われない形へ、願いを削る。
それでも、完全には防げない。
祈るたびに、彼女は少しだけ神の理へ近づく。守るべき者と許さざる者を分けることが、少しだけ容易になる。迷いが削れる。迷いが削れることを、彼女は正気が削れることに近いと感じていた。
いま祈らなければ、橘たちは死ぬかもしれない。
真船は逃げる。証拠は消える。証人は殺される。まだ救える命が、どこかで荷物のように積み替えられる。
アルテミシアは、神が悪ではないことを知っている。悪意ではない。憎悪でもない。罰でもない。愛なのだ。だからこそ、分かり合えないことが分かってしまう。
神々は人間の意味を理解する。愛も、悲しみも、献身も、美しさも理解できる。だが、価値観は人間とは交わらない。聖女は神に愛された者であり、同時に神に選ばれた犠牲者である。
神は、聖女が苦しみながら選ぶ姿を愛する。善であろうとする心が、戦の理を拒み、それでもなお誰かを守るために祈りへ手を伸ばす瞬間を、美しいものとして見る。
舞台の上の役者を支えるパトロンのように。人形が意志を持って動くことを望む少女のように。その無邪気さは、優しさではない。虫の羽をもぐ子供が、痛みを痛みとして理解しながら、それでも指を止めないのと同じである。
アルテミシアは、それを知っていた。自分の苦悩さえ、神にとっては祝福の一部なのだと。自分が祈れば、あの方は喜ぶのだと。それでも、今は祈らなければならない。
アルテミシアは目を閉じた。
「愛と戦の神よ。
あなたの娘たるアルテミシア・レインが願います。
我が腕のうちに入れたる者らに、
ひと時の庇護を与え、守り給え。
彼らの恐れを鎮め、
悪しき意志を挫く力を貸し与え給え。
我が祈り、我が願い、聞き届け給え」
胸の奥で何かが開いた。光ではなかった。安らぎでもなかった。愛するものへの庇護欲と、それ以外のあらゆるものへの不寛容。その果ての戦の肯定であった。
――アルテミシア。
声がした。音ではない。言葉でもない。それでも、彼女はそれが誰のものか知っていた。
――私の可愛い娘。
――私の可愛い人形。
アルテミシアは、唇を噛んだ。神は笑っていた。
――そなたの祈りを聞き届けましょう。
祈り。あるいは、呪い。
――あなたの愛すべきものに、守護を。
――あなたが拒むものに、鉄槌を。
作戦室の照明が一瞬だけ白くにじんだ。端末の表示が乱れたわけではない。電源が落ちたわけでもない。そこにいる人間の認識だけが、ほんのわずかに揃えられた。誰を守るべきか。何を残すべきか。どこへ走るべきか。その線が、刃物で引いたように見えた。




