Leave no man behind—noble sentiment, but terrible ROI.
ミラージュは考えを巡らせる。
先日、福祉局の職員が一人捕まった。あれは末端だがそこから手繰れば、違法取引ルートの集積施設に辿り着くだろう。集積施設の痕跡を洗えば、真船の名前が出るし、請け負っている新華月警備が浮かぶ。そして新華月を揺さぶれば、梁瀬のような人間が尻尾を出す。
ネックとなるのは真船恭介だった。
すべての契約を整え、名義を管理し、資金の流れに法的なお墨付きを与えている男。真船が落ちれば、構造の全体が剥がご破算ともなりかねない。
労働局がどこまで辿っているかは、正確にはわからない。福祉局員からどれだけの情報が引き出されたのか。集積施設でどこまで証拠を押さえたのか。新華月への臨検で、何を探していたのか。
だが、点が並び始めてしまった。一本の線になるまで、そう長くはかからないはずだ。
真船は弁護士だ。危機管理の訓練は受けていないし、自分で逃走計画を組める人間ではない。こちらで逃がすにしても、証拠の処分、移送の手配が必要になる。
問題は、その手配をする時間があるかどうかだった。
――切り捨てるほうが早いか。
そう結論付けると、二つ目の端末を取り出した。一つ目とは別の回線。別の暗号化手法で別の中継経路を通る。こちらは上への報告用だった。
呼び出しは長くなかった。回線が繋がる。声は男のものだった。穏やかであり、ひどく事務的で、少しだけ疲れている。名前は知らない。
「状況を報告します」
『どうぞ』
「梁瀬から連絡がありました。労働局が新華月警備へ臨検に入っています。港湾警備の記録を重点的に洗っており、踏み込んだ質問が出ているとのことです」
『臨検ですか。名目は』
「おそらく施設警備の不備に基づく確認でしょう。ですが、目的はそこではないと見ています」
『福祉局員の件ですか』
「はい。あれから数日も経っていません。動きが早い」
沈黙があった。面倒の気配を感じているのだろう。それはお互い様である。
「福祉局員の供述からどこまで辿れているかは当方では把握しきれていません。ですが、臨検内容は確認中ですが、新華月の先に何かがあると嗅ぎつけてはいると考えるべきでしょう。あの|弁護士《desk jockey》に届く可能性が」
『なるほど。確度は?』
「時間の問題でしょう。梁瀬はその場で真船へ連絡を入れました。その通信は当方でも捕捉しています。ただし……」
ミラージュはわずかに言葉を切った。
「労働局が梁瀬を泳がせている可能性があります。あの局にはナディア・グロモワがいます。なので臨検自体揺さぶりという可能性もあります」
『つまり、まだあちらにもはっきりした証拠自体はないと』
「断定はできません。ですが、あの局の情報部がただ眺めているとは考えにくい」
相手は何も言わなかった。ミラージュは続けた。
「真船への線が手繰られるのは、もう前提として動くべきです。提案があります」
『聞きましょう』
「真船を国外へ亡命させます」
静かに、日常の温度で、ミラージュは言った。
「まず真船本人を国外へ退避させます。私のチームを動かせば四十八時間以内に出国は可能です。並行して、事務所の端末、保守会社の中継サーバー、関連する会計データ、すべての証拠を処分します。真船の退避が完了した時点で、残りの協力者や、我々の痕跡を消します」
『真船を手放すということですか』
「手放すのではなく、退避です。オルセアでの法務窓口は私の方で代替を用意しますが、真船ほどの使い勝手は期待できません。他の進行中の作戦に影響が出る可能性がありますが、それでも、真船を労働局に押さえられれば、失うものは撤退した場合の比ではありません」
一呼吸置く。
「国家警察が令状を取れば、事務所への強制査察は避けられません。査察が入れば端末は押さえられる。端末からは契約記録、送金履歴、委託先の一覧が出ます。真船は弁護士です。職業倫理を盾にした引き延ばしはできますが、組織犯罪対策基本法と犯罪収益移転防止法を重ねて適用されれば、守秘義務は外されます」
『わかっています』
声は穏やかだったが、そこに同意の気配はなかった。
『ですが、真船はこの地域の表の顔を支えている柱です。オルセアでの新規事業の設立、契約管理、法的な整合性、すべて彼が組んでいる。彼を抜けば、建物は残っても柱がない』
「柱が立っていても、労働局がその柱ごと引き抜くなら同じことです」
『まだ引き抜かれてはいません』
「時間の問題です」
『時間の問題であっても、今ではない。そう言っているのです。何とかするのがあなたの仕事では?』
窓の外で、航空機の通過するエンジン音が響く。空港が近いのだろう。それが過ぎるとまた沈黙が顔を出す。何事もなかったように。
『真船には現地の弁護士会との関係もある。判事との人脈もある。福祉局内の協力者との接点も、真船を経由しているものが複数あります。これを一晩で切り替えられるとお思いですか』
「一晩では無理です。ですが、真船が逮捕されれば切り替えの余地すらなくなります」
『先ほども言いましたが、逮捕されないようにすればよいでしょう』
真船を手放す損失と、真船を残すリスクを天秤にかけてまだ傾いていない。あるいは、損失の方が重いと感じているようだった。
「逮捕を避ける方法は限られます。労働局が国家警察と連携すれば、令状は下ります。令状が下れば表立って拒めません。それに横車を押せる伝手がまだない」
『しかし、SAGに対しては準備があるはずです。高い金を払って軍属崩れを入れているのです。働かせては?』
「ですが、それは逃げるための時間を稼ぐ手段です。パージの承認があれば、戦わずに済みます」
『戦わずに済む、という言い方は正確ではありませんね、ミラージュ。あなたが嫌がっているのは、戦うことではなく、雑な戦いになることでしょう』
ミラージュは答えなかった。相手は続けた。
『真船は残します。事務所も維持してください。ただし、最悪の場合は撤退を認めます。しかし、我々としてもちょっと突かれて撤退では面子が立たない。我々の商売はなめられると困るのですよ。あなたもご承知のはず。うまく運んでください。かられ風に言えば、Leave no man behindというやつです。くくく』
「承知しました」
回線が切れた。
彼女は端末を膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。そして突然、力いっぱい端末をベッドに叩きつけた。窓から投げなかっただけ理性的である。
窓の外では、酒に酔った一団が大きな声を上げており、店舗からは景気のいいBGMが流れ出している。路肩には金で体を売ることを生業とした者たちがおり、煽情的な肢体を晒している。窓から吹き込む夜風には、香辛料、酒と腐臭、安い香水の香りが混じっていた。
パージは却下された。正確には、保留にされた。保留とは、決断を先延ばしにしているだけで、多くの場合、先延ばしにしている間にも自体は悪化していく。
労働局の分析官は線を手繰り続けている。連中は決して無能ではない。
ミラージュは静かに計算を始めた。パージが認められない以上、真船は残る。事務所も残る。ならば、令状が下りた時に備えるしかない。
時間稼ぎがいる。
時間稼ぎに必要な最小限の配置を計算する。遮蔽による簡易的なトーチカ、突入班の足を止めるブービートラップ。あまり気は進まないが自爆ベスト。最後の手段だが、SAGの前進を数分止められる。
周辺にも備えが要る。SAGが突入すれば、後詰が来る。混乱がなければ真船を連れて離脱するのはむずかしいだろう。何か考える必要がある。その間に、真船を裏口から逃がす。セーフハウスへ移す。ここまでが、今の条件で組める最善だった。
――最善。何が最善だ。何がメンツだ……下らん!ROIも考えられんカスどもが!
これは最善ではない。最善はパージだった。真船を回収し、何事もなかったかのように別の法務窓口を立てる。引き継げば住む話しだ。国家警察が来た時には、空の事務所と、何も残っていない端末だけがある。戦闘は起きない。犠牲者も出ない。証拠も残らない。
それが却下された。
残されたのは、雑な戦いだった。正面からSAGとぶつかり、使い捨ての人間で時間を稼ぎ、その間に真船を逃がす。死傷者が出るだろう。警察側にも。もちろんこちら側にも。結果的に警察はなりふり構わなくなるだろう。連中は身内の死には特に敏感だ。
ミラージュが最も嫌う種類の仕事だった。だが、それしかない。彼女は端末を取り上げ、三つ目の回線を開いた。こちらは現地部隊への指示用だ。
「グラウ」
『はい』
イルゼ・グラウ。ここ、オルセア国内では篠崎京子を名乗り、表向きは清掃業者。実態はSWAMPの現場指揮官であり、事故処理と証拠隠滅を請け負う実働の要だった。
「真船の線が手繰られている可能性が高いわ。福祉局員の件から、新華月まで来ている。労働局よ」
『新華月の先が読まれますか』
「わからない。ただ、真船に届くのは時間の問題だと思っている」
グラウは短く黙った。実務者の沈黙だった。状況を呑み込み、次の行動を組み立てている間の。
「備えが要る。真船法務事務所の防衛準備に入りなさい。詳細は暗号化ファイルで送ります」
『いつまでに』
「すぐにでも」
『せわしないですね』
「労働局は早い。連中は警察より動きが読みにくい。」
『労働局……例の義体化捜査官がいる。たしか橘でしたか』
「ええ」
ミラージュは窓の外を見た。
「彼は……というより、彼らには注意を」
『使い捨て|≪オフ・ザ・ブックス≫の配置数は』
「最小限で組む。数はファイルに入れるわ。ヤロスラフにも声をかけておいて。真船の護衛と退避路の確保は彼に任せる」
『了解しました』
回線が切れた。
ミラージュは窓辺を離れ荷物を手に取る。この部屋にはもう戻らない。名義は今夜中に消す。記録に残る宿泊者は、存在しない法人の存在しない出張者だけだ。
廊下へ出る前に、彼女は一度だけ振り返った。街の明かりが部屋の壁に四角い影を落としている。
雑な仕事は嫌いだ。だが、嫌いだからと言って、やらないわけにはいかない。ミラージュは扉を閉めた。静かに、丁寧に、何の音も立てずに。




