長い監査の終わりに
橘は表情を変えなかった。仕掛けを踏んだな。
ハブ施設で制圧した警備機械の一基には、情報部が仕込んだバックドアが残っている。あの機体は、新華月警備株式会社そのものではなく、保守会社の中継サーバーを経由していた。そして今、梁瀬が出した連絡は、同じ中継サーバーの別口へ流れた。
いい加減なセキュリティに感謝だな。そう内心考える。橘は義体の神経同期回線から、あらかじめ用意されていた攻撃型パッケージへ実行承認を返す。派手な侵入ではない。鍵穴に針を差し込む程度の、短いエクスプロイトだった。
一拍遅れて、視界の端に小さな確認表示が出る。
外部連絡複製成功。
送信:秘匿転送
宛先:真船法務事務所
内容:労働局の監査が来た。かなり踏み込んだ質問をされている。注意しろ。
橘は何も言わなかった。梁瀬も、自分が今仕掛けを踏んだのか気づいていない。
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三時間後、臨検は終了した。
新華月警備株式会社側に渡されたのは、即時対応が必要な指摘事項の控えだけだった。資格区分の不整合。配置表と入退構記録の齟齬。協力会社作業員の業務範囲説明不足。装備貸与簿の記載漏れ。再委託管理記録の一部不備。
致命的ではない。呉はその紙を受け取り、最後まで礼儀正しい顔を保っていたが、内心を察することは容易い。橘達は新華月をつぶすことが目標ではないので、それ以上、深くは追及しない姿勢だった。
「後日、正式な報告書をお待ちしております」
「承知しております」
ナディアは端末を仕舞い鞄を閉じる。パチリという金具の閉じる音が会議室に響き、臨検の終わりを関係者に伝える。
「是正対応をお願いします」
「もちろんです」
その声には、多分に疲労と苛立ちがにじんでいた。エントランスまで見送られ、二人はガラス張りの本社ビルを出た。呉はほとんど見送ることなく腹立たし気に事務所に戻っていった。
外の光は、来た時より少し白くなっている。警備ロボは相変わらず、無言で敷地を巡回していた。
ビルを背にして数十メートル歩いたところで、橘が口を開いた。
「法務は知らないようだな」
「ええ」
ナディアは端末を見ながら答える。
「イルゼ・グラウに反応なし。呉法務部長は、おそらく表側の対応を任されているようですね」
「警備部長は知っているな」
「知っていますねあれは」
即答だった。
「少なくとも、イルゼ・グラウという本名に反応しましたし、偽名だけでなく本名まで割れていることに動揺していました」
「あの警備部長は真船に連絡を取っていた。そのうち情報が出る」
「不正アクセス取締法で引っ張られますよ」
「証拠を残すへまはしない」
ナディアは全く気にしたそぶりもないが、そう言い放つ。
「それはそれとして、港湾警備の補助業務という名目で、資格対象外の人員を混ぜる仕組みがあります。搬入補助、夜間立会い、車両誘導。言葉を変えれば警備業務ではないと主張でき、後ろ暗い連中も自由に施設に送り込めます」
「だがほとんど死文化している」
橘が低く言った。
「誰かが確認しなければその条文は効果を発揮しない。ろくに機能しない条文は存在しないのと同じだ」
「ええ。しかし、まっとうに運用しようとすればおそらく妨害されるでしょう」
ナディアは短く答えた。
「個人で世界規模で展開する会社とやり合う人間はいないでしょう。仮にいたとしても、おそらくろくな結末は迎えられない。正しいことを正しく行うには、それなりの力が必要でしょう」
橘は振り返らなかった。新華月警備株式会社のガラス張りのビルは、光を受けて穏やかに輝いている。表から見れば、何も問題のない会社だ。港湾を守り、物流を支え、地域に雇用を作る優良警備会社。その裏側で、誰かが誰かを見逃し、誰かが誰かに後始末をさせている。今日、全部の確認は取れなかったが、まずまずな結果といえるだろう。
車内に戻るころにはナディアの端末に、本局からの紙資料の解析結果が通知された。税務や関係機関へのデータベース照会の結果も付随している。
株式会社海辰設備管理。新華月警備株式会社の協力会社の一つだ。過去に警察の内偵を受けたことがあり、役員一名が非合法組織と接触歴があり、特殊清掃業者との取引を伺わせる情報があったがその後の続報はなかった。もみ消されたか、嫌疑不十分か……詳細は不明だった。
ただ、この時の支払い先の一つに、篠崎京子が所属する特殊な清掃会社との線があった。ナディアは足を止めた。
「橘さん」
「何だ」
「出ました」
画面を見せる。橘はそれを一瞥したが表情は変わらなかった。ナディアはほんのわずかに息を吐いた。今日の臨検では、誰も逮捕していない。銃も抜いていない。扉も蹴破っていない。だが、新華月警備株式会社の警備部から、ウルガンクス残党の後始末屋へ伸びる線は見えた。警備部長から真船への連絡するラインもとらえた。十分だ。橘は歩き出した。
「戻るぞ」
「ええ。なんだか疲れました。帰りに何か食べません?」
そう言いながらナディアは端末を閉じ伸びをするが、そこで腹の虫が鳴き声を上げ慌てたように腹部を抑える。
橘は笑うとまた怒られそうなのを察し、黙っていたが、結局真っ赤な顔のナディアに肩を殴られることとなった。
背後では、新華月警備株式会社のガラス壁が、何事もなかったように空を映していた。
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ミラージュへの梁瀬からの連絡が中継サーバーを通過したのは、臨検終了からしばらく時間がたってからのことだった。
いくつかの踏み台サーバーを経由した後に、最終的に手元へ届くまでの通信経路は冗長で、遅い。だが、逆探知や追跡を振り切る意味でも有効である。
彼女は繁華街を見下ろすホテルの一室でその通信を受け取った。今いる部屋は部屋は短期利用の契約で、存在しない会社名と社員名で借り受けている。正確に言えば会社も社員もどちらも紙の上にだけ存在する。
窓のカーテンは開いており、夜風が開かれた本のページを捲ろうとする。ページの一節が隙間から差し込む商業施設の常夜灯により照らされる。
梁瀬から送られてきた通信の文面は短い。
――労働局が来た。監査で港湾警備の記録を洗われた。かなり踏み込んだ質問をされている。注意しろ。
それだけだが十分だった。それを眺めながら彼女は考えをまとめるように目を閉じる。
端末を置き、窓の外を見た。夜でも通りは賑やかで、観光客目当てのキッチンカーが連なっている。
労働局が新華月警備へ直接臨検に入った。ただの書類不備を確認しに来たのではないことは明白だった。




