藤が丘の揺れるゆりかご
地下鉄東山線の終着駅、藤が丘。
リニモの近未来的な高架が空を切り裂き、駅前には学生や家族連れの明るい声が響いている。
名古屋の東の端に位置するこの街は、名駅や栄の泥臭さとは無縁の、あまりに清潔な「日常」に満ちていた。 だが、その清潔さが、俺には吐き気がするほど不自然に思えた。
「おじさん、見て。あのマンション、入り口に警備員が三人。……スタバのカップ持ってるけど、目は全然笑ってないよ」
赤いレインコートを脱ぎ、ラフな格好に着替えた凛が、フラペチーノを啜りながら顎で示した。
駅前のスタバのテラス席。
そこからは、組織(神楽坂グループ)が所有する最高級マンションの入り口が一望できる。
あの中に、心中を生き延びたとされる社長の愛娘、レナが匿われているはずだ。
「……三年前、玲那が命をかけて守ろうとした娘だ。組織の道具にされる前に、俺が連れ出す」
俺は冷めきったブラックコーヒーを飲み干した。
その時だ。マンションの重厚な自動ドアが開き、数人の黒スーツに囲まれて、一人の少女が現れた。
大きな白い帽子を深く被り、顔の半分を隠している。
だが、その隙間から覗く白い顎と、繊細な指先。
俺の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
玲那に似ている――。
いや、あまりにも玲那そのものに見えた。
「凛、行け」「了解。……おじさん、あとで高いケーキ奢ってよね」
凛が席を立ち、わざとらしく少女の集団へとぶつかっていった。
「あ、ごめんなさい!」
凛が持っていたフラペチーノが、少女の白いワンピースに飛び散る。
周囲のSPが殺気立ち、凛を突き飛ばそうとしたその瞬間。
「……いいの。私がぼんやりしていたから」少女の声。
鈴を転がすような、だが氷のように冷たい響き。
混乱に乗じて、俺はSPの死角から少女に歩み寄り、彼女の手元にあるスタバのカップ――彼女が落としそうになったそれを支えるふりをして、一枚のスリーブを滑り込ませた。
そのスリーブの裏には、俺の「逃し屋」としての暗号が記されている。
少女が顔を上げた。
帽子の庇の下で、目が合った。
俺は息を呑んだ。
それは、子供の目ではなかった。 三年前、星ヶ丘のスタバで「死にたい」と笑った玲那の、あの絶望と狂気が混ざり合った瞳そのものだった。
「……おじさん。コーヒー、苦くない?」
彼女は小さく囁いた。
SPが俺を排除する直前、彼女の唇が確かにそう動いた。 俺は突き飛ばされ、アスファルトに手をついた。 その夜。
俺に協力した藤が丘の配達員が、リニモの高架下で死体となって発見された。
口の中には、大量の「バニラビーンズ」が詰め込まれ、耳からは溶けたキャラメルが流れ出していた。
死体の横には、彼女が俺の目の前で持っていたはずのカップが置かれていた。
メッセージ欄には、こうあった。
『苦いのは嫌い。もっと甘くして、おじさん』
俺は震える手で、新しいタバコに火をつけた。
助け出そうとしているのは、本当に「守られるべき子供」なのか。
俺が追っているのは、玲那の影なのか、それとも彼女が産み落とした怪物なのか。
藤が丘の駅に、終電を告げる冷淡なアナウンスが流れた。
俺の「逃し屋」としての長い夜が、今、始まろうとしていた。




