藤が丘の揺れるゆりかご(検分・組織の深淵編)
リニモの高架下。深夜の静寂を切り裂くように、愛知県警の鑑識車両の赤い灯がアスファルトを濡らしていた。 規制線の向こう側では、機動捜査隊(機捜)の面々が、あまりに凄惨で、あまりに「甘い」現場を前に言葉を失っていた。「……また、これか」 現場に到着したベテラン刑事、鬼頭は、遺体の口内に溢れるバニラビーンズの黒い粒を見つめ、苦々しく吐き捨てた。 被害者は20代のデリバリー配達員。死因は窒息――だが、その気道を塞いでいたのは、本来スタバのカウンターで香りを添えるはずの、高価なスパイスの山だった。「星ヶ丘のキャラメルに続き、今度はバニラ。……マル被(容疑者)は、スタバに相当な恨みがあるか、あるいは極度の甘党ってわけか。なあ、左神」
鬼頭は、規制線の外側、暗がりに佇む左神の姿を鋭い眼光で射抜いた。
警察の隠語で「コロシ(殺人事件)」と呼ばれる現場に、かつてのエリート警備員がなぜ現れる。
「……俺じゃない。あんたも分かってるはずだ」
「ああ、お前ならもっと手際よく、ブラックコーヒーみたいに苦い終わり方を用意する。だがな、上はそう見ていない。神楽坂グループへの執着、スタバでの頻繁な目撃情報。お前はもう、警察にとっちゃ『マル対(身辺保護対象者)』ではなく、最優先の『マル被』候補なんだよ」
一方、名駅の神楽坂グループ本社。
宗一郎は、秘書が持ってきた現場写真を見て、震える手でデスクを叩いた。
「左神だ。間違いなく奴の仕業だ……! 玲那との思い出を汚された怒りで、狂ったか」
彼の背後、窓の外を見つめる「娘(玲那)」は、その言葉に微かな笑みを浮かべた。
彼女は知っている。この死体は、自分が左神に宛てた「招待状」に過ぎない。(左神さん……あなたが私のために手を汚せば汚すほど、この街の『日常』は壊れていく。
……あともう少し。この愚かな男たちの疑念が、あなたを本当の『怪物』に変えてくれるまで) 彼女の瞳には、かつて心中を図った夜の火の粉が、今も冷たく燃えていた。
「……パパ。怖い。あの探偵さんが、私を殺しに来るの?」
玲那は、震える声を装って宗一郎の腕にすがりついた。 宗一郎はその肩を抱き、狂おしいほどの独占欲で彼女を見つめる。「案ずるな、レナ。奴がこの街のどこかのスタバに現れた瞬間、文字通り『掃除』させてる。……警察も、街の住人も、全員が奴の敵だ」
組織は動いた。左神 豊を「救済者」ではなく、街を恐怖に陥れる「シリアルキラー」に仕立て上げるための、巨大なデマと暴力の歯車が回り始めた。




