怪物の涙(本当の罪の開示)
「神楽坂のデータを抑えた! 全員退避しろ、急げッ!」
千影が血染めの領収書をコートの懐にねじ込み、マフィアの戦闘員たちの銃撃をかわしながら非常階段へと身を躍らせた。
「豊のおじさん、わたしも行くネ! パパの部下たちをこれ以上人殺しにさせないために、全員引っ張って下まで逃げるアル! おじさん、絶対に、絶対に死んじゃダメネ!!」
メイリンもお団子頭を激しく揺らし、不殺の信条を胸に抱いたまま、押し寄せる戦闘員たちを怪力で押しのけながら、千影の退路を確保すべくバックヤードの闇へと消えていった。
ドゴォォォォン!!! 直後、役員室の真下、二百四十メートル付近の配電プラントが、玲那の仕掛けたハッキングプログラムによって意図的にショートさせられ、最初の地鳴りのような爆発を起こした。
床が激しく波打ち、天井のコンクリートが剥がれ落ちて大理石の床を粉砕する。ガラス窓が一斉に外側へと吹き飛び、雨に濡れる上海の外灘の熱い夜風が、硝煙の渦巻く室内へと一気に雪崩れ込んできた。
残り時間、二分。
崩落を始める地上二百五十メートルの火の海の真ん中で、白いワンピースを纏った少女は、未だに自らの頭を抱え、床に膝を突いて激しく震えていた。
「違う……、私が、あの子を殺したのよ。パパを殺したグループの連中を全員地獄へ送るために、私は悪魔になったの。そうでなきゃ、つじつまが合わないじゃない……。なんで、なんであの子が生きてるのよ!」
怪物の人格が、自己矛盾のノイズを起こして激しく壊れていく。
俺は一歩一歩、折れた肋骨が内臓をきつく抉る激痛に耐えながら、彼女の元へと歩み寄った。口の奥から溢れ出る鮮血を袖で拭い、その場に静かに膝を突く。そして、震える彼女の細い肩を、両手で優しく、包み込むように強く抱きしめた。
「もういいんだ、玲那。……お前は、誰も殺しちゃいない」
「おじさん……?」
彼女の身体が、俺の胸の中でピタリと硬直した。
「お前の中にある『怪物』は、先代社長への復讐のために、冷酷に人を殺し、千影の妹まで沈めたと思い込んでいた。だがな、お前が本当に逃げたかったのは、組織の残党からじゃない。……三年前、お前が愛してしまった父親の無理心中の巻き添えにして、自分の本当の娘である『本物のレナ』を死なせてしまった、お前自身の底のない罪悪感からだろ」
俺の言葉が、彼女の脳内の歪んだチェス盤を、内側から完膚なきまでにひっくり返した。
彼女は、先代社長の「愛人」などではなかった。先代社長との間に、本物の娘を授かっていた「本当の母親」だったのだ。
童顔という特異な容姿のせいで誰もが彼女を少女だと誤認したが、三年前の心中事件で、最愛の夫を失い、我が子を自分の身代わりに死なせてしまったという絶望が、彼女の精神を二つに引き裂いた。
そうして生まれたのが、すべてを組織のせいにして破滅へ突き進む「冷酷な怪物」の人格だった。
だが、お前の中に残された、本当の玲那の良心は、我が子を失った哀しみを癒すように、組織に消されそうになっていた千影の妹を、命がけで裏で救い出していたんだ。
「……あ、あ、ああ……っ」
その瞬間、彼女の瞳から、それまでのすべてを嘲笑っていた暗黒の光が、完全に消え失せた。
引き裂かれた怪物の仮面の奥から、三年前のあの雨の夜、名駅の時計台の下で俺の胸に顔を埋めた、一人の狂おしいほどに切ない「本当の玲那」の人格が、ついに表層へと溢れ出してきたのだ。
「おじさん……、ごめんなさい……。わたし、おじさんを騙して、おじさんの人生を全部めちゃくちゃにして……。わたしが、悪魔になっちゃったから……っ」
大粒の、本当の涙が、彼女の童顔の頰を伝ってポロポロと流れ落ち、俺の泥まみれのマウンテンパーカーを濡らしていった。
それは、怪物に脳を支配されながらも、ごく稀にスタバのシステムの死角を突いて、俺の端末に『私を殺して止めて』とヘルプのメッセージを送り続けていた、悲痛な彼女の、本物の心の手触りだった。
「分かっているさ、玲那。……だから俺は、最初からすべてを知った上で、お前の注文に最後まで付き合うって決めたんだ」
俺は、激しい炎に包まれ、崩壊していく世界の真ん中で、泣きじゃくる彼女の細い身体を、これまでの全人生の愛着を込めて、強く、強く抱きしめ直した。
あの子の本当の涙を、本当の深愛を、この逃し屋の腕の中だけが、世界で唯一の、最後のサードプレイス(居場所)だった。




