血染めの領収書(本当の逃し屋のテクニック)
「嘘よ……嘘嘘嘘! 私はあの子を殺した! 黄浦江の汚い泥水の中に、この手で沈めて笑ったのよ! 私はパパを殺した神楽坂のすべてを、この手で終わらせる悪魔なんだからッ!」
背後で、玲那が自らの頭を両手で激しく抱え込みながら、悲鳴のような絶叫を上げた。
すべてをチェス盤の駒として弄んできた「冷酷な怪物」の人格が、内側から激しく剥がれ落ち、防壁がガラガラと音を立てて崩壊していく。その歪な拒絶反応に呼応するように、役員室の真っ赤な警告灯がさらに激しく明滅し、遠隔心中タイマーのデジタル数字は残り『五分』を告げて非情に減り続けていた。
千影の構える自動拳銃の銃口は、激しい動揺のために完全にその焦点を失い、雨に濡れた銃身が小刻みに震えていた。
「左神……。お前は、なぜそこまで確信を持って言える……。なぜ、あの化け物の言葉ではなく、そんな夢物語のような真実を信じられるんだ」
「夢物語なんかじゃないさ、千影」
俺は、激痛で千切れそうになる右脇腹を抑えながら、不敵な、だがひどく哀しい笑みを浮かべた。
手にした一通の、くたびれた血染めの領収書。その裏面に、俺の指先がそっと触れる。
「俺が、あの女の仕掛けた最悪のゲームに最後まで付き合うと決めたのは、単なる三年目の約束の義理なんかじゃない。……俺は、受け取っていたんだよ。あの子の奥底に眠る、本当の玲那からの『ラスト・オーダー』をな」
俺の言葉に、千影が息を呑む。
そうさ、知っていたんだ。あの子の表層にある怪物の人格は、俺の人生を絶望で汚して笑うサイコパスだった。だが、星ヶ丘、藤が丘、そして長久手。あの恐ろしい殺人のレシピがモバイルオーダーで送信されるその数分前、ごく稀に、システムのセキュリティの死角を突いて、別の文字コードが俺の古い端末へ滑り込んできていた。
『おじさん、ごめんなさい。わたしの中にいる悪魔が、また人を殺しちゃう』
『お願い、おじさん。私を、私ごとこの怪物を殺して止めて。みんなに、迷惑をかけてごめんなさい』
それは、怪物に脳の大部分を乗っ取られた玲那の「最後の良心」が、命を削るようにして俺に送り続けていた、悲痛なヘルプのメッセージであり、被害者たちへの血の滲むような謝罪の言葉だった。
彼女は、自分が怪物として破滅するその瞬間まで、俺という不器用な探偵だけを、自分の本当の心を預けられる唯一のサードプレイス(居場所)として信じ、縋り付いていたのだ。
俺は、表層の冷酷な玲那にはその事実に一歩も気づかれないよう、ただの「騙されている哀れな探偵」を完璧に演じ続けていた。
あの子の本当の涙を、本当の謝罪を、あの怪物の皮を被った少女の奥底にある深愛を、俺の手で世界の果てまで逃がし切るために。
「千影、これを受け取れ」
俺は、その血染めの領収書を、千影の胸元へと力任せに放り投げた。
「その裏には、先代社長が命をかけて遺した、神楽坂グループのすべての不正データのバックアップの隠し場所が記されている。これがあれば、お前の妹を道具のように扱って沈めた組織のすべてを、社会的に完全抹殺できる。……そして『1・5・2』のシェルターへ行け。お前の妹は、あの子の良心が命がけで守って、そこで生きてお前を待っている」
千影は、宙を舞った領収書を、震える左手で完璧にキャッチした。
彼がその裏面の座標とコードを確認した瞬間、その切れ長の瞳から、これまでのすべての呪縛と狂気が消え失せ、一人の「兄」としての本当の光が戻るのが分かった。
「……左神。お前は、本当に大馬鹿な探偵だ」
「フン、お前のような猟犬に言われたかねえよ。……さあ行け、千影。ここはもうすぐ、本当の地獄に変わる」 残り時間、三分。
メイリンが塞いだキャビネットの向こうから、現地のマフィアたちの怒号と激しい銃撃が非常扉を突き破らんばかりに迫っていた。
俺は崩落を始めようとする役員室の真ん中で、頭を抱えて震える玲那の細い身体を見つめ、この世界の果てで、二人の人格の境界線に全ての決着をつけるための、最後の逃し屋のステップを踏み出した。




