22時のチェックイン
「あはは! 気づかなかった? お兄さんが必死に追っていたのは、とっくに死んで魚の餌になった女の子の、ただの幻影だったのよ!」
玲那の引き裂かれた仮面の奥から、すべての情愛を嘲弄する暗黒の光が、爛々と輝いていた。その真っ赤な唇から吐き出された残酷な嘘――否、彼女自身が本気で信じ込んでいる「偽りの記憶」の刃が、千影の心臓を無慈悲に突き刺した。
「う、あ……、あああああああ!!!」
千影の口から、魂を引き裂かれた男の、狂気じみた絶言が狂ったように湧き上がった。
妹を救い出すためにプライドも執念もすべてを賭けて、泥水を啜りながらここまで這い上がってきた猟犬は、自分が最初から死体の影に躍らされていたという絶望に打ちのめされ、膝から崩れ落ちて大理石の床を血が出るほど強く殴りつけた。
彼の右手から自動拳銃が力なく転がり、コンクリートの静寂に吸い込まれていく。
だが、俺は知っていた。
マウンテンパーカーのポケットの中で、俺の指先が触れている一通の封筒。稲沢の線路際で、桐生冴子が俺の手首に手錠をかける瞬間に滑り込ませてくれた、警察の極秘検視データのログ。
あそこには、黄浦江から引き上げられた死体など存在しないと書かれていた。
玲那、お前は本当に恐ろしい怪物だ。
自分が妹を殺して沈めたと、自分自身の脳さえも完全に騙し切っている。
だが、お前の中に残された、三年前のあの雨の名駅で俺の胸に顔を埋めた『本当の玲那』の最後の良心は、お前という怪物に悟られないよう、裏で必死にその手を汚さず、千影の妹を安全な場所へ逃がしていたんだ。
お前が提示したあの『152』という暗号コードは、お前にとっては処刑のレシピでも、お前の奥底に眠る彼女にとっては、妹が今も生きているシェルターの、本当の『生存のチェックインコード』なんだよ。
俺は、すべてを理解していた。あの子の表層がどれほど冷酷な悪魔の言葉を吐こうとも、その深層で泣いているもう一人の彼女を、この俺が最期の一滴まで愛し、付き合ってやる。それが、左神豊という男の、狂おしいほどの深愛の証明だった。
「豊のおじさん、パパの部下たちが正気を取り戻して、こっちに向かってくるアル!」
ステンレスの大型ゴミ箱を床に置き、荒い息を吐きながらメイリンが叫んだ。彼女はお団子頭を揺らし、二階の特別フロアへ続く階段から、通信の混線から回復したマフィアの戦闘員たちが一斉に殺到してくる気配をその野生的な本能で察知していた。
「ここは大暴れして道をあけるネ! でも、その前に……おじさん、その泣き虫のお兄さんを置いていっちゃダメアル!」
「分かっている。千影、立て」
俺は床に崩れ落ちた千影の胸ぐらを強引に掴み上げ、その耳元で、周囲に聞こえない低い声を絞り出した。「お前の妹は、まだ死んじゃいない。あの子の奥底にいるもう一人の人格が、お前のために生かして逃がしてある。……本当のコードを解き明かしたければ、俺と一緒に、あのビルへ来い」
「……何、だと……?」
千影が涙に濡れた眼光を剥き出しにし、俺の顔を凝視した。その瞳に、消えかけていた執念の残り火が、再び青白い猛火となって灯るのが分かった。
「おじさん、次が本当に最後。わたしの、一番大好きな、特製のラテを作って待ってるね」
玲那はスマホの画面をタップし、マフィアの護衛たちの壁の向こう側へと静かに後退しながら、かつてないほど愛おしそうな目で俺を見つめ、あどけない声で微笑んだ。
彼女のスマホの画面。遠隔心中タイマーの数字は、非情にも残り『三十分』を告げて刻一刻と減り続けている。 午後二十二時ちょうど。上海の外灘にそびえ立つ、神楽坂グループの真の黒幕たちが潜むあの超高層ビルの最上階が、彼女がすべての罪を俺に着せて自分自身をこの世界から消滅させるための、本物の心中事件のチェス盤へと反転する。
「メイリン、ここは任せたぞ!」
「任せるアル、おじさん! 殺しはしないけど、全員まとめてスタバの備品にしてあげるネーッ!!」
メイリンが再びステンレスの大型ゴミ箱を素手でブン回し、突っ込んできたマフィアの戦闘員たちを不殺の怪力で次々と壁へと薙ぎ払っていく。その圧倒的な熱量の盾に護られながら、俺は千影の肩を抱き、特別フロアの非常口へと走り出した。
世界で一番大きなスターバックスを飛び出すと、外はすっかり魔都の退廃的な夜の帳に包まれていた。
液晶の放つ冷たい光、鳴り響くサイレン、そして二十二時の大爆破に向けて動き出した死の秒針。 俺は懐の偽造パスポートと冷めきったブラックコーヒーの苦みを噛み締めながら、隣で狂気と執念を取り戻した千影と共に、最後の戦地である外灘の超高層ビルへと向かって、夜の上海を狂ったように駆け抜けていった。




