千影の逆襲(引き裂かれた仮面)
「銃を引け、神楽坂の猟犬」
千影が銃口を突きつけた瞬間、周囲を固めていたチャイニーズ・マフィアの黒スーツの男たちが一斉に上着の懐に手を入れ、重厚な自動拳銃の銃身をこちらへと突きつけてきた。
カチャカチャと無機質な金属音が二階の特別フロアに不気味に木霊する。張り詰めた殺気の密度は、一瞬にして沸点へと達していた。
だが、千影の指は引き金にかけられたまま、微塵も震えてはいなかった。妹の命を奪われ、その監禁コードという名の見えない鎖に繋がれた男の瞳には、死への恐怖など一片も残っていない。
あるのは、目の前の怪物を道連れに地獄へ堕ちるという、鋭利な狂気だけだった。
「お兄さん、本当に撃てるのかな? 私が死んだら、その瞬間にあなたの可愛い妹さんのいる地下室のバルブが閉じて、冷たい泥水が肺いっぱいに流れ込む設定になっているのに」
玲那は銃口を正面から見据えながら、クスクスと鈴を転がすようなあどけない声で笑った。「その脅しはもう大須で聞き飽きた。貴様はそうやって人の情愛をあざ笑い、泥水を啜らせて楽しんでいるだけの化け物だ。……ここで殺して、すべてを終わらせてやる」
千影が撃つ、まさにその刹那――。
「――させるかアルッ!!」
凄まじい風切り音と共に、お団子頭を激しく揺らしたメイリンが、フロアの片隅から弾丸のように躍り出た。
彼女は、自分のパパの組織がこれ以上血生臭い暗殺や犯罪に手を染めることを、そして何より、数年前に自分を大須の闇から救い出してくれた恩人である左神(豊)をここで死なせることを、その真っ直ぐな魂で激しく拒絶していた。
メイリンは「殺しはしない」という自らの信条を完璧に守りながらも、その桁外れの怪力で、テラス席の横に置かれていたスタバ特製のステンレス製の超大型ゴミ箱を両手でガッシリと掴み取った。
「野郎ども、豊のおじさんに触るんじゃねえネーッ!!」
ブンッ! という、空気を強烈に押し潰すような破天荒な轟音。
メイリンが素手で振り回した巨大なステンレスの塊が、千影に向けて発砲しようとしたマフィアのSP二人の胴体を正面から強烈に薙ぎ払った。
「がはっ!?」「う、あぁ!」
大人二人の身体が、まるで紙屑のように横のガラス壁へと叩きつけられ、衝撃でひび割れた強化ガラスの破片がフロアに派手に飛び散る。
この一瞬の、大乱闘が巻き起こした視界の空白。
それを、本物の猟犬である千影が見逃すはずがなかった。
彼はマフィアたちの射線が逸れた隙に、獲物を狙う豹のような速さでマホガニーのデスクを飛び越え、玲那の細い首元へとその左手を伸ばした。
ガシィィィィッ!!!
千影の屈強な指先が、玲那の喉元を完璧に捉え、彼女の小さな身体をソファごと壁際へと力任せに押し付けた。玲那の手から護身用の拳銃が滑り落ち、大理石の床に乾いた音を立てて転がっていく。
「……終わりだ、化け物。残りのコードを吐け。さもなければ、このままお前の細い首をへし折る」
千影の腕に青筋が浮かび、玲那の白い喉がギリ、と音を立てて圧迫されていく。
だが、首を絞められ、酸素を奪われつつあるその極限の状態にあっても、フードの庇の下の怪物は、一切の苦悶の表情を浮かべてはいなかった。
彼女は、血の気の引き始めた真っ赤な唇を歪な形へと釣り上げ、千影の顔を至近距離で見つめながら、ゾッとするほど冷酷に、そして静かに囁いた。
「……お兄さん、本当にかわいそう。……あの子なら、もういないよ?」
「――何だと?」 千影の動きが、完璧に凍りついた。「お兄さんが探しているお妹さん……。大須で提示したあのコードの場所には、もう誰もいないわ。あの子はね、一ヶ月も前に、上海のあの冷たい黄浦江の、底深くの泥水の中に沈められているのよ。私がパパたちの信頼を得るための、最初の『トッピング』としてね」
玲那の瞳の奥で、すべての情愛を嘲弄する暗黒の光が、爛々と輝いた。「あはは! 気づかなかった? お兄さんが必死に追っていたのは、とっくに死んで魚の餌になった女の子の、ただの幻影だったのよ!」「う、あ……、あああああああ!!!」
千影の口から、魂を引き裂かれた男の、狂気じみた絶叫が狂ったように湧き上がった。
妹を救うためにプライドも執念もすべてを賭けて泥水を啜ってきた猟犬は、自分が最初から「死体のコード」に躍らされていたという最悪の真実に直面し、完全に正気を失って床へと崩れ落ちた。
引き裂かれた、無垢な令嬢の仮面。
その向こう側から現れた、すべてを滅ぼすためだけに生まれた本物の怪物の姿に、俺は痛む右脇腹を抱えながら、冷めきったブラックコーヒーの苦みを飲み干すように、静かにその凄惨な盤面を見つめていた。




