二重底のデトネーター(仕掛けられた心中)
巨大な真鍮のロースターが階下で重低音を響かせ、銅製パイプの中を滑り落ちるコーヒー豆の音が、まるで運命の秒針のように特別フロアに鳴り響いていた。
ガラス窓の向こうに広がる魔都・上海の超高層ビル群が、夕暮れの重油混じりの雲に切り取られ、まるで巨大な墓標の群れのように赤黒く染まっていく。
「おじさん、長旅でお疲れでしょう? はい、これ。上海店で一番人気の、最高に甘いヘーゼルナッツプラリネラテ。おじさんのために、私が特別にオーダーしておいたよ」
玲那はマホガニーの高級デスクの上を、細く白い指先で滑らせるようにして、淹れたての温かいロゴ入りマグカップを俺の前に差し出してきた。白くきめ細やかなフォームミルクの上には、まるで血の滲んだ爪痕のように、キャラメルソースが歪んだ網目状に美しく描かれている。
俺は無言でそのカップを受け取り、ずっしりとした磁器の重みを右手に感じた。
だが、その底面から伝わってくるのは、淹れたてのコーヒー特有の心地よい熱量だけではなかった。微かに規則的な、トク、トク、という機械的な電子の脈動が、陶器の肌を通じて俺の手のひらへと直接伝わってくる。「……粋なカスタマイズだな、お嬢ちゃん。トッピングの枠を完全に超えている」
俺が低く吐き捨てると、玲那はメンズジャケットの大きなフードの庇の下から、最高に無垢で、最高に愉しげな大人の笑みを浮かべた。
「分かる? さすがはおじさん。そのカップの二重底にはね、現地の最新鋭の電子デトネーター(遠隔発破装置)が仕込んであるの。この店(ロースタリー上海)のフリーWi-Fiの基幹システムを経由して、今、上海の『外灘』にある、あの神楽坂グループの真の黒幕たちが隠れている超高層ビルのメインボイラー室と完全に同期したわ」
彼女が手元のスマホをトントンと指先で叩くと、液晶の冷たい青白い光の中に、不気味に赤く明滅するデジタルタイマーが浮かび上がった。
刻まれていた数字は、残り『四十五分』。
午後二十二時ちょうど。
それが、彼女がこの世界の果てで完成させようとしている、すべての因縁を灰にするための最終段階の心中計画のタイムリミットだった。
「パパ(神楽坂宗一郎)を殺して、娘(本物のレナ)も殺して、私は日本から完全に消えたはずだった。でもね、まだ私の心の中に、不味いコーヒーの残り滓みたいにこびりついて離れない奴らがいたのよ。先代社長――私の本当の父親を罠にハメて殺し、私を道具みたいに汚した、神楽坂グループの本当の首謀者たち。あいつらが、この上海のマフィアの資金洗浄ルートを使って、のうのうと生き延びていたの」
玲那の瞳から、あどけない少女の光が完全に消え失せ、底知れない暗黒の底で、狂気的な殺意の火の粉が爛々と輝き始めた。
「あいつら全員を、今夜二十二時に、ビルごと綺麗に焼き殺してあげる。もちろん、世間には『脱獄囚の左神豊が、上海まで追ってきた組織の幹部たちを道連れに、最悪の爆破心中を起こした』ってニュースが流れる手筈よ。ねえ、おじさん。私のこの最後のオーダー、一緒に最後まで飲み干してくれるよね?」
彼女は、俺の人生を絶望で汚して、自分自身の罪から逃れるための完璧な生贄(入れ物)として、俺をこの世界の果てまで呼び寄せたのだ。俺がどれほど彼女の多重性の狂気に戦慄しようとも、その身体に刻まれた満身創痍の激痛すらも、俺の胸の中の「深愛」をさらに狂おしく加速させるための燃料に過ぎなかった。
「……豊のおじさん、あの女のスマホ、おかしいアル!」
背後で特大フラペチーノのカップを強く握り締めたメイリンが、お団子頭を激しく揺らしながら、鋭い声を張り上げた。
「パパの兵隊たちのインカムのチャンネルが、あのスマホの電波で勝手に書き換えられてるネ! あの女、マフィアの通信網をジャミングして、パパの部下たちを自分の鉄砲玉(暗殺者)として勝手に動かしてるアル! なんておぞましい童顔ネ!」
メイリンはマフィアの長の娘でありながら、血生臭い暗殺や犯罪の信条を心の底から嫌い、このスタバという日常のサードプレイスに救いを求めて入り浸っている、最高に真っ直ぐな野生児だった。だからこそ、玲那がスタバのシステムとマフィアの武力を悪用して、さらなる大量虐殺を引き起こそうとしている現実に、その野生的な防衛本能を激しく激昂させていた。
「動くな、神楽坂の化け物」
俺の隣から、黒い防水コートの裾を激しく翻した千影が、剃刀のような殺気を撒き散らしながら一歩前に踏み出した。彼の右手には、衣服の下から引き抜かれた、冷たい金属の鈍い光を放つ自動拳銃の銃口が、迷いなく玲那の眉間へと水平に向けられていた。
「終わりだ。お前の仕掛けたチェス盤ごと、その悍ましい脳髄を今ここでブチ抜いてやる」
残り時間、四十分。
世界で一番大きなスターバックスの二階特別フロアで、マフィアのSPたちの銃口が一斉に千影へと向けられ、血の匂いを孕んだ最終決戦の秒針が、激しく火花を散らしながら動き出そうとしていた。




