泥を孕んだ黄浦江
東シナ海の荒波を夜通し切り裂いてきた国際コンテナ貨物船は、夜明けと共に、泥を孕んで茶褐色に濁る黄浦江の最下流へと滑り込んでいた。
船底の漆黒のコンテナスペースを満たしていた重苦しいディーゼルエンジンの地鳴りが、フッと途絶える。
バタン、と無機質な重厚な金属音が響き、頭上のハッチから、上海の湿った、重油とスパイスの匂いが混ざり合った熱い空気が一気に流れ込んできた。
「……着いたぞ、探偵」
暗闇の向こう側、赤錆びた鉄壁に背中を預けていた千影が、衣服に染みついた硝煙と潮の匂いを漂わせながら、低く掠れた声を絞り出した。
彼の膝の上には、神楽坂グループの残党から強奪した自動拳銃が握られ、その切れ長の目は、世界の果てまで追い詰めた怪物の気配を察知するように、鋭くギラついていた。
俺は、トレンチコートを失った囚人服の上から、ユタカが放り込んでくれた泥まみれのマウンテンパーカーを羽織り、千影に肩を借りながらタップを登った。
一歩踏み出すたびに、長久手と稲沢で折られた右脇腹の肋骨が悲鳴を上げ、喉の奥から熱い血の味がせり上がってくる。強くない俺の身体は、とっくに限界を迎えていたが、不思議と足取りに迷いはなかった。
タラップを降り、上海の港湾の、コンテナが山積みにされた無機質なコンクリートの上に足をつく。
対岸に見えるのは、近代的な超高層ビル群が近未来の墓標のようにそびえ立つ、魔都上海の景色だ。空を覆う低い雲が、街全体の熱気を閉じ込めるように重たく垂れ込めている。
その時、俺のポケットの中で、ハゲのユタカから渡された臨時のスマートフォンが、チリン、と澄んだ電子音を響かせた。
画面を開くと、自動更新されたスタバの公式アプリの通知欄に、一件の注文確定画面が冷酷に浮かび上がっていた。『スターバックス リザーブ ロースタリー上海。本日14時。モバイルオーダー完了』
注文履歴の末尾には、容姿と名前を完全に変え、戸籍を抹殺して「透明人間」となった玲那からの、最後のチェックインを示すカスタマイズコードが光っていた。
「……おじさん、合格。次のサードプレイスで、約束のコーヒーを用意して待ってるね」
脳裏に響く、あのあどけない少年の皮を被った怪物の笑い声。彼女は、俺がすべての人生を投げ捨てて、自分の望む地獄の果てまで付き合いに来ることを、完璧に見抜いて楽しんでいるのだ。
「千影……。案内人が、向こうのスタバで待ってるはずだ。……行くぞ」
俺は、冷めきったブラックコーヒーの苦みを舌の上で転がすようにして乾いた唇を開き、魔都の雑踏の中へと足を踏み出した。
十三時四十五分。上海の最も華やかな中心部、南京西路の交差点。
見上げるような巨大なドーム状の建物――当時世界最大規模を誇ったスターバックスの最高峰旗艦店『スターバックス リザーブ ロースタリー上海』の入り口の前で、俺と千影は、変装のフードを深く被りながら立ち尽くしていた。
ガラス扉の向こうからは、現地のセレブや観光客たちの賑やかな中国語の喧騒が漏れ聞こえてくる。
「豊のおじさん! 遅いアル! 首が伸びてキリンになるところだったネ!!」
その緊迫した空気の真ん中を、突如として、弾丸のような破天荒な声がぶち破った。
人混みを割って現れたのは、お団子頭に少し大きめのアウターを羽織り、ストリート系にアレンジしたミニのチャイナドレスを揺らした、小柄な少女だった。メイリン(梅鈴)だ。
彼女は、両手にベンティサイズの特大フラペチーノを抱え、口の周りにスタバの高級スコーンの食べカスの粉をいっぱいつけたまま、俺の元へと猛烈な勢いで駆け寄ってきた。
「数年ぶりネ、おじさん! 相変わらず不味そうなブラックコーヒーみたいな顔してるアル!」
「……メイリン。お前、相変わらず騒々しいな」
俺が苦笑いしながら言うと、メイリンは「〜アル」「〜ネ」と、日本のアニメの観すぎで歪んだ、怪しい日本語を操りながら、俺の破れたパーカーの袖を掴んだ。
「ユタカのハゲおやじから連絡あったネ。おじさんが日本で大暴れして、サツに追われて密航してきたって聞いたアル。大須の路地裏でわたしを救ってくれた人情の探偵さん、今度は上海でどんなお節介を焼きに来たネ?」「おい、左神。このうるさい野生児は誰だ」
千影が、全身から刃物のような殺気を撒き散らしながら、特殊警棒の柄に手をかけてメイリンを鋭く睨みつけた。
だが、メイリンはその本物の猟犬の殺気に対し、怯えるどころか、フラペチーノのストローをズズズッと豪快に啜りながら、生意気に顎を突き出してみせた。
「なんだお前、目つきの悪いお兄さんネ! わたしは上海を牛耳るマフィアのボスの娘、メイリンアル! 今は組織の堅苦しい家を飛び出して、ここのスタバで毎日スコーン大食いしてるネ! おじさんの敵なら、わたしの怪力でスタバの大型ゴミ箱ごとブン回してぶちのめしてあげるアル!」
凛の真っ直ぐな正義感は、日本の名古屋に残してきた。だが、この世界の果ての魔都上海では、もう一人の人情の種――神楽さながらのタフで破天荒な少女が、俺の「盾」となるために、特大のフラペチーノを抱えて並び立ってくれた。
「レナ――あの女は、店の中にいる。……メイリン、案内を頼む」
「了解アル、おじさん! あの新しくマフィアのパパの懐に入り込んで『若き女帝』気取ってる気味の悪い童顔の女、わたしも気に入らないネ! 案内してあげるから、しっかりついてくるアル!」
メイリンはフラペチーノを片手で掲げ、世界最大のサードプレイスの自動ドアへと堂々と歩き出した。
十四時ちょうど。 巨大な焙煎機が回る硝煙と珈琲の香りの渦のなか、探偵と怪物の、最期の一滴まで付き合うための「最終決戦」の幕が、今、魔都のスタバで上がろうとしていた。




