密航船のブラックコーヒー
ドォン、と重苦しい金属音が船底の鉄板に響き、ディーゼルエンジンの強烈な重低音が、五臓六腑を直接揺さぶるように振動を始めた。
三重県四日市港を離岸した国際コンテナ貨物船は、豪雨の伊勢湾を抜け、外洋の激しい荒波へとその巨体を突き進めていた。
完全な暗黒に包まれたコンテナスペースの床は、周期的に大きく傾ぎ、そのたびに積み上げられた建築資材やパレットが、軋むような悲鳴を上げて闇の中に響き渡る。「……なぁ、左神。一つ、聞いてもいいか」
暗闇の向こう側、赤錆びたコンテナの壁に背中を預けていた千影が、衣服に染みついた火薬と潮の匂いを漂わせながら、低く掠れた声を絞り出した。彼の膝の上には、神楽坂グループの残党から強奪した、冷たい金属の感触を放つ自動拳銃が握られている。
「何だ、千影。船酔いなら、そこにある毛布にでも顔をうずめてろ」
「お前のことだ。……お前は、あの小娘が本物の怪物だと知っていながら、なぜそこまでして命をかける。大須でも、稲沢の線路際でも、お前はあいつの盾になって俺の警棒を受け止めた。あの童顔の悪魔は、お前の人生を絶望で汚して喜んでいるサイコパスだぞ。お前がどれだけ命をかけても、あいつの歪んだ心を救うことなどできん」
千影の言葉は、氷のように冷たく、そして正論だった。 俺は暗闇の中で深くため息を吐き、懐からハゲのユタカが最後に放り込んできた、保温アルミボトルを取り出した。中に入っているのは、四日市港の自販機で買った、冷めきった泥水のような缶のブラックコーヒーだ。それを一口啜ると、喉の奥が焼けるような強烈な苦味が、さっきの乱闘で折れた肋骨の痛みを激しく刺激した。
「……救うだなんて、そんな大層なことは考えてねえよ、千影」
俺はボトルを千影の方へと転がした。コンクリートの床を金属が転がる乾いた音が響く。
「俺は、あの子のすべてを愛しちまったんだ。三年前、雨の名駅の時計台の下で、世界のすべてに絶望して俺の胸に顔を埋めた玲那。あのとき彼女が流した本当の涙の熱を、俺の魂は今更裏切ることなどできない。……あいつがどれほど冷酷な怪物に成り果てていようとも、あいつが俺の人生を絶望で汚して笑おうとも、俺はその狂気のすべてに、最期の一滴まで付き合う覚悟を決めてる。あいつが望む地獄の果てまで、この不味い泥水を一緒に飲み干しに行く。それが、俺の最初で最後の、深愛の証明さ」
俺の言葉を聞いた千影は、暗闇の中で押し黙った。彼の手にするボトルの液体が、船の揺れに合わせてチャプ、チャプと微かな音を立てている。彼もまた、妹という名の幻影に狂わされ、泥水の味を知るもう一人の孤独な捜索者だったからこそ、俺のその狂気的な覚悟を、完全には否定しきれなかったのかもしれない。「……狂ってるな、探偵。お前も、あの小娘も」
千影はボトルを口に運び、冷めきったブラックコーヒーを喉に流し込むと、苦々しく吐き捨てた。
「だが、都合が良い。お前がその化け物の盾になるというなら、俺は最後までお前を利用させてもらう。上海に着いたら、俺はお前の背後から、あの小娘の心臓を確実に撃ち抜く。お前の深愛ごと、地獄へ葬ってやる」「ああ、上等だ。……世界の果てまで、俺の背中をしっかりと護衛してろよ、猟犬さん」
激しく揺れる船底の中で、俺たちは静かに目を閉じた。
日本の名古屋で積み上げてきた「人情」という名のお節介のネットワークは、ここで完全に一度、円を描いて閉じた。
だが、この船が向かう先、アジアの巨都・魔都上海では、もう一人の人情の種――あの破天荒な大食い少女・メイリンが、スタバの特大フラペチーノを抱えて俺たちを待っているはずだ。




