四日市港、漆黒のタラップ
深夜一時半。ハゲのユタカが運転する黒いセダンは、激しい豪雨に煙る三重県四日市港の、最も暗い国際貨物ターミナルの最奥へと滑り込んだ。
ワイパーが乱暴に跳ね除けるフロントガラスの向こう、闇の中にそびえ立つ幾十もの巨大なガントリークレーンが、まるで深海の怪物の群れのように冷たく濡れ光っている。潮の香りと重油の匂いが混ざり合った生温かい潮風が、車内にまで容赦なく吹き込んできた。
車が完全に停止した瞬間、後部座席のドアが開き、俺は千影に肩を借りながら、激しい雨の降りしきるアスファルトの上へと這い出た。拘置所の独房から連れ出された俺の身体は、折れた肋骨が息をするたびに内臓を深く突き刺し、一歩進むごとに血の味が喉の奥からせり上がってくる。強くない俺の肉体は、とっくに限界を迎えていた。
「――おじさんっ!!」
その時、コンテナの影から、赤いレインコートを翻した影が猛烈な勢いで駆け寄ってきた。
凛だった。 彼女は稲沢で俺が逮捕された後、ユタカの元へ身を寄せ、この四日市港で俺の脱獄をずっと待ち続けていたのだ。凛は泥まみれの俺の囚人服の胸元に、泣きながら縋り付いてきた。
「おじさん、本当に脱獄しちゃうなんて……、バカだよ。なんでそこまでして、あの悪魔の女の子を追いかけるの!? あの子はもう日本にいない! 上海に行っちゃったんだよ! おじさんを猟奇殺人犯にして、自分だけ楽しそうに笑ってる怪物のために、なんで自分の人生を全部捨てるの!」
凛の魂の叫びが、激しい波の音と雨音に掻き消されながらも、俺の鼓膜を鋭く刺した。
俺は、雨水に濡れる彼女の黒髪を、残された左手で優しく、ゆっくりとなぞった。
「分かっているさ、凛。……あの子が救われるべき悲劇の令嬢なんかじゃないことくらい、俺が一番よく知ってる。俺の人生を絶望で汚して、それをご馳走みたいに食べて笑ってる、本物のサイコパスだ」
「じゃあ、なんで……!」
「……愛しちまったんだよ。どれほど冷酷な怪物だろうが、俺が三年前、雨の名駅で約束した『逃がし屋』の仕事は、まだ注文の途中なんだ。あいつの望む地獄の果てまで、この不味い泥水を飲み干しに行くのが、俺の最後の仕事だ」
俺は凛の細い肩をそっと押し戻し、ハゲのユタカを振り返った。ユタカはバックミラー越しに、すべてを察した苦い顔で俺に一通の封筒を放り投げてきた。中には、冴子がコップの底に残した上海の座標、そして「本物の偽造パスポート」が収められている。
「左神の豊、お前さんがそこまで腹を括ってるなら、俺はもう止めねえ。……だがな、上海のあの大食い娘には、すでに俺の無線ルートから連絡を通してある」「……メイリンか」
俺の脳裏に、数年前、大須の路地裏で半グレ組織に売られそうになっていたところを、俺の「お節介」で救い出し、上海の安全なルートへ逃がしてやった一人の少女の顔が浮かんだ。
「ああ。あいつ、今は上海のチャイニーズ・マフィアのボスの娘って肩書を放り出して、現地のスタバに毎日入り浸ってやがるらしい。お前さんが上海に着いたら、あいつのサードプレイス(居場所)へ向かえ。凛の代わりに、あの破天荒な野生児が前線で盾になってくれるはずだ。……凛は、俺が責任を持って名古屋に連れて帰る」「恩に着る、ユタカ。……凛、空手着のクリーニング代は、ユタカのダッシュボードに置いといたからな」
「おじさんのバカ……! 絶対に生きて戻ってこい、大馬鹿野郎!!」
凛の絶叫を背中で受け止めながら、俺は千影と共に、闇の中に佇む上海行きの国際コンテナ貨物船の、漆黒のタラップへと一歩一歩、激痛に耐えながら歩みを進めた。
港湾労働者たちの「最後のお節介」により、臨時の臨検の目はすべて外側へと眩まされている。
タラップを登りきり、暗い船底のコンテナスペースへと滑り込んだ瞬間、重厚な鉄の扉がバタンと閉まり、完全な暗黒が俺たちを包み込んだ。
凛の真っ直ぐな正義感は、ここで一度名古屋へと残される。だが、海の向こうの魔都・上海では、もう一人の人情の種――破天荒な少女・メイリンが、特大のフラペチーノを抱えて俺たちを待っているはずだった。
世界の果てへのラスト・オーダーの秒針が、激しく揺れる船底の中で、静かに加速を始めていた。




