人情の脱獄(緩められた鍵)
真っ赤な非常灯の光が、濃霧のような煙のなかで渦巻いていた。
名古屋拘置所の心臓部である中央制御室が、ユタカと千影の仕掛けたハッキング注文爆撃(DDoS攻撃)によって完全に麻痺した。
警報ブザーが狂ったように鳴り響くなか、俺は開放された鉄扉を押し開け、独房のあった長い回廊へと足を踏み出した。
「104番が脱監したぞ!」
「止めろ! 非常階段を封鎖しろ!」
暗がりの向こうから、警棒を構えた刑務官たちの慌ただしい足音と怒号が迫ってくる。
長久手で折られた右脇腹の肋骨が、一歩踏み出すたびに肺を深く抉り、喉の奥から熱い血の味がせり上がってきた。強くない俺の身体は、すでに歩くことすら奇跡に近い満身創痍の状態だった。
だが、その行く手を遮るように、天井のダクトを派手に蹴り破って、黒い防水コートの裾を翻した男が滑り込んできた。
千影だ。
「遅いぞ、探偵。サツのバックアップが起動するまで、あと一分もない」
千影は手にした特殊警棒を鋭く一閃させ、突っ込んできた先頭の刑務官の腕を完璧な打突で無力化し、その巨体をごみ屑のように壁へと叩きつけた。
圧倒的な武力。妹の命を握る玲那という怪物に近づくため、彼はこの拘置所を地獄の底からこじ開けに来たのだ。
「千影……、正面のハッチは完全にロックされているはずだ。どこから抜ける」
「心配するな。この建物の『鍵』は、最初から半分開いている」
千影に肩を担がれ、俺たちは煙の満ちる管理棟の非常階段へと駆け込んだ。
通常であれば、脱獄囚の行く手を阻むはずの三重の鉄製セキュリティドア。だが、不思議なことに、俺たちがその前に達するたびに、電子ロックのインジケーターは「緑(開放)」を示して、静かにその重い扉を開け放っていった。
千影の解読デバイスの力だけではない。
俺は、その開かれた扉の向こう、中央監視室のガラス越しに、一瞬だけ佇む人影を見た。
一糸乱れぬ警察の制服を着た、稲沢署の刑事課長――桐生冴子。
そしてその隣で、安物の煙草を咥えたまま、苦い顔でモニターを見つめているベテランの鬼頭刑事。 二人は、俺が「犯人」として檻に引きこもるのではなく、すべてを察した上で、玲那という悪魔を世界の果てまで追いかけようとしている狂気的な深愛を、完全に理解していた。
だからこそ、システムエラーのどさくさに紛れて、あえて手動のバックアップラッチを「合法的かつ意図的に」緩めておいてくれたのだ。
警察官としての誇りもキャリアもすべてを捨てて、俺を世界の果てへと送り出すための、旧友たちの最後にして最大のお節介が、この暗黒の檻の中で静かに俺の背中を押していた。
「……ありがとよ、みんな」
俺は心の中で小さく呟き、冴子たちが開けてくれた最後の非常口の扉を蹴り開けた。
外へ飛び出した瞬間、バケツをひっくり返したような豪雨が全身を激しく叩きつけ、傷ついた身体を冷やした。
拘置所の外周フェンスの隙間、待機していたハゲのユタカの黒いセダンが、激しいエンジン音を響かせてリアドアを跳ね上げる。
「左神の豊! 早く乗りなッ!」
運転席からユタカが叫ぶ。俺と千影が後部座席になだれ込むと同時に、車はタイヤを激しく空転させ、追っ手のパトカーがロータリーへ滑り込んでくるよりも早く、夜の白壁の官庁街を猛烈な速度で脱出していった。
バックミラーの向こう、真っ赤な非常灯に染まる拘置所のシルエットが遠ざかっていく。
俺は、冴子がコップの底に残してくれた、上海の特定の座標を頭の中で何度も反芻した。
彼女が俺の人生をどれほど絶望で汚して笑おうとも、俺はその狂気のすべてを最期の一滴まで愛し、付き合う覚悟を決めていた。名前を失った怪物との、本当の「命懸けの最終章」へ向けて、俺たちを乗せた車は、激しい雨のなか、深夜の四日市港へと向かって狂ったようにバイパスを駆け抜けていった。




