氷壁の差し入れ(冴子のラスト・メッセージ)
名古屋拘置所の独房に戻り、どのくらいの時間が流れただろうか。
窓のない狭いコンクリートの空間では、時間という概念そのものが白く濁った泥水のように停滞していく。
手首に残る手錠の冷たい感触と、バラストの上での乱闘で砕かれた右脇腹の鋭い痛みが、自分がまだ生きていることを辛うじて証明していた。
折れた肋骨が息をするたびに内臓をきつく圧迫し、熱い呼吸を吐き出すたびに、大須のスタバで受け取ったあのホワイトモカの甘ったるい香りが、幻覚のように鼻腔をかすめては消えた。
カツン、カツン、と、静寂に包まれた廊下の奥から、マニュアル通りに統率された冷徹な足音が近づいてきた。 重厚な鉄扉の小さな差し入れ口が、ガチャンと無機質な金属音を立てて開く。差し込まれたのは、拘置所の規定には本来存在しないはずの、見慣れたクラフト紙の袋だった。
「……104番。差し入れだ」
若手の刑務官が、どこか緊張した面持ちで手短に告げ、足早に去っていった。
袋を開けた瞬間、独房の湿った空気が、一瞬にして香ばしい、懐かしいカフェインの匂いによって塗り替えられた。
中に収められていたのは、スターバックスのロゴが印刷された、ベンティサイズのペーパーカップ。
そして、まだ仄かな温かさを保ったドリップコーヒーだった。
ブラック。氷はなし。
俺は震える指先でその温かい紙コップを取り出し、じっと見つめた。
拘置所の厳格な検閲を潜り抜け、指名手配の猟奇殺人犯である俺の元へ、こんな日常の象徴を届けることができる人間など、この愛知県警の中に一人しか存在しない。 ――桐生 冴子。
稲沢の線路際で、俺の細い手首に冷たい手錠をかけた「稲沢の氷壁」だ。
あいつは俺を逮捕する瞬間、周囲の捜査員に聞こえないほどの低い声で『あんたの勝ちね、豊』と呟いた。
中学時代から規律と規則の奴隷だったあの優等生が、今度は拘置所のマニュアルを完膚なきまでに踏みにじり、この一杯のコーヒーを俺の元へと滑り込ませてきたのだ。
俺はカップを口元に運び、熱い黒い液体を喉に流し込んだ。
いつも通りのブラックの、舌が焼けるような強烈な苦みと酸味が、さっきの乱闘で傷ついた胃壁に容赦なく突き刺さる。だが、その不味くて、最高に愛おしい泥水の味が、俺の冷え切った脳髄を激しく覚醒させた。
「……相変わらず、後味の悪いお節介を焼きやがる」 俺は、飲み干した空の紙コップを裏返し、鉄格子の隙間から差し込むわずかな月光の下にかざした。
コップの底、厚紙の繊維の隙間に、肉眼では決して気づかないほどの微細な針の穴が、規則的な配列でいくつか穿たれていた。
一見すれば、ただの容器の不具合か傷にしか見えない。だが、中学時代、生徒会長だった冴子が、問題児の俺に「放課後、生徒指導室へ来い」と伝えるために使っていた、二人だけの秘密の暗号コードの配列そのものだった。
俺は脳内の立体地図を開き、その針の穴の感覚を、緯度と経度の数字へと反転させていった。
弾き出されたのは、日本のどこの街でもない、東シナ海を越えた遙か彼方の大陸の座標。
――『北緯31度13分、東経121度27分』。
それは、世界で一番大きなスターバックスの旗艦店が存在する、中国・上海の静安区、南京西路の交差点を示す正確な位置情報だった。
冴子は、長久手や金山でのレナのスマートフォンハッキングデータを、警察の鑑識の目を盗んで極秘に解析し、あの怪物が最後にチェックインを済ませた『本当の目的地』を、このコップの底に刻み込んで俺に託したのだ。 あいつは俺がすべてを知った上で、玲那という悪魔を世界の果てまで追いかけようとしている狂気を見抜いていた。だからこそ、自分のキャリアも、警察官としての誇りもすべてを賭けて、俺に「最後のオーダー」を届けてくれた。
冷たい氷壁の仮面の裏側で、あいつは中学の頃から何一つ変わらない、俺の命を繋ぐための必死のお節介を焼いてくれていたのだ。
「待ってろ、玲那。……お前が上海の大きなスタバで特製のラテを用意して待ってるってんなら、俺はどんな地獄の底からでも、その泥水を飲み干しに行ってやる」 俺はコップの底の暗号を指先で強く擦り潰し、独房のコンクリート床の上に静かに立ち上がった。
冴子が命がけで道を拓いてくれた。ならば、俺が檻の中に引きこもっている時間は、もう一秒だって残されてはいなかった。
その時、拘置所の廊下の奥から、ジリリリリリリリッ! という、鼓膜を激しく引き裂くような非常用警報ブザーの大音響が、夜の静寂を暴力的にぶち破って鳴り響き始めた。




