独房のサイレンス
愛知県名古屋市東区、白壁の官庁街の一角に佇む名古屋拘置所。
その最深部にある、三畳一間の独房を支配しているのは、コンクリートの冷たい壁が音もなく吐き出し続ける、耳鳴りのような「静寂」だった。
高所の鉄格子から差し込むわずかな月光だけが、灰色の床の上に頼りない四角い光の輪を落としている。
俺は、トレンチコートを剥ぎ取られた囚人服の姿で、その光の輪を見つめながら静かに座っていた。
世間はいま頃、「スタバの死神」と呼ばれた連続猟奇殺人犯、そしてゲートタワー最上階を火の海に変えた最優先指名手配犯・左神豊が稲沢の西の最果てで逮捕されたというニュースに沸き立っているはずだ。
警察の取調室では、幾度となく神楽坂宗一郎社長親子を爆殺した動機を問い詰められたが、俺はただの一言も喋らなかった。
「……なぁ、左神。本当にこれでいいのか」
重厚な鉄扉の小さな覗き窓から、鉄格子のついた面会室へと引きずり出された俺を待っていたのは、かつての理解者であり、愛知県警のベテラン刑事である鬼頭だった。
アクリル板の向こう側、鬼頭はいつもの安物の煙草の匂いを纏わせながら、酷く深く刻まれた眉間の皺を寄せて俺を睨みつけていた。
「現場に残されたちぎれたボタン、指紋。お前をホシとして挙げるための証拠は、サツのバカどもが泣いて喜ぶほど完璧に揃ってる。だがな、俺の目は誤魔化せねえぞ。星ヶ丘のキャラメル、藤が丘のバニラ、長久手のブレーキ細工、そして大須の偽造パスポート……。あれらすべての殺人のレシピを裏で操っていたのは、お前じゃない。お前は、あの心中事件から生き延びて『透明人間』になった、あの神楽坂の化け物を庇って、自ら泥水を被ったんだろ」
鬼頭の言葉は、鋭く核心を突いていた。
だが、俺はアクリル板の向こうの旧友に向かって、ただ冷めきった笑みを浮かべることしかできなかった。
「鬼頭。……刑事の勘ってやつは、時として小説の読みすぎになるらしいな。俺はただの落ちぶれた探偵で、依頼された通りの仕事をこなしただけの犯罪者だ。それ以上の真実なんて、この世のどこのスタバのメニューにも載っちゃいないよ」
「左神……!」
鬼頭がアクリル板を拳で激しく叩いた。鈍い音が面会室に響き、立ち会いの刑務官が鋭い視線を走らせる。
「あの女――レナになりすましている玲那は、お前を『犯人』に仕立て上げて、自分の籍をこの世から完全に消し去ったんだぞ! お前がどれほど命をかけてあいつを守ろうとしても、あいつはお前の人生が絶望で歪む瞬間を、上等なトッピングみたいに貪り食って笑ってるサイコパスだ! なぜ、そこまでしてあいつの奴隷になる!」 奴隷、か。
鬼頭の怒号を聞きながら、俺は胸の奥で、冷え切ったブラックコーヒーよりも苦い感情を、静かに、そして深く噛み締めていた。
分かっているさ、鬼頭。お前の言う通りだ。
あの子が救われるべき汚れなき少女などではなく、人の善意や情愛を貪り食って愉悦を覚える、本物の怪物だということくらい、俺は最初から、星ヶ丘のカードの文字を見たときから、すべてを察していた。
凛が言ったように、俺はあの女に利用され、騙され、仲間たちを巻き込んで破滅の道を走らされてきた。
彼女は俺を「犯人」にするために死体を並べ、俺が必死に築いた「人情のチェス盤」を、最後は最上階の爆発ですべて灰にしてあざ笑った。
だがな、鬼頭。……それでも俺は、あの女のすべてを愛してしまったんだ。
三年前、雨の名駅の時計台の下で、世界のすべてに絶望して俺の胸に顔を埋めた玲那。あのとき彼女が流した本当の涙の熱を、俺の焼けた喉を潤してくれた温かいコーヒーの苦みを、俺の魂は今更裏切ることなどできない。 彼女がどれほど冷酷な怪物に成り果てていようとも、彼女が俺の人生を絶望で汚して笑おうとも、俺はその狂気のすべてに、最期の一滴まで付き合う覚悟を決めていた。彼女が望む「心中」のシナリオを、完璧に『逃がし切る』ための最強のサードプレイス(居場所)に、この俺がなってやる。それが、左神豊という愚かな男の、生涯で最初で最後の、狂おしいほどの「深愛」の証明だった。
「面会終了だ」
刑務官の冷淡な声が響き、俺はゆっくりと立ち上がった。「左神、お前は間違っている! そのままあいつと地獄へ落ちる気か!」
鬼頭の叫びを背中で聞きながら、俺は再び、重い鉄扉の向こうの暗闇へと歩き出した。
独房に戻り、コンクリートの床の上に再び腰を下ろす。時計の針はない。だが、俺の胸の中の秒針は、すでに日本を飛び出し、アジアの巨都・上海へと高飛びしたあの怪物の足取りに合わせて、静かに、そして確実に時を刻み始めていた。




