冷めきったブラック
豪雨が叩きつける名鉄尾西線・山崎駅のプラットホームに、冷淡な終わりを告げるようにパトカーのけたたましいサイレンが何重にも重なり合って押し寄せてきた。 暗い田んぼの向こう側から、無数の激しい赤色灯の光が夜霧を真っ赤に引き裂き、無人駅の錆びついたトタン屋根や、雨に濡れるバラストの海を禍々しく照らし出していく。
それは、東のJR愛知機関区、そして中央の名鉄本線・国府宮駅での時間差囮トリックにようやく踊らされていたことに気づき、血相を変えて西の最果てへと殺到してきた、愛知県警の総力の残光だった。
線路の上に、俺は力なく両膝を突き、そのまま泥まみれのアスファルトへと崩れ落ちた。
長久手での脇腹の傷口からは、先ほどの千影との激しい乱闘によって完全に肉が裂け、どす黒い鮮血が雨水に混ざってとめどなく流れ出している。折れた肋骨が息をするたびに肺を深く突き刺し、喉の奥から激しい血の味がせり上がってきた。
「ハァ……、ハァ……、おじさん……!」
数歩離れた場所で、凛が破れた制服の袖で額の血を拭いながら、ふらふらとした足取りで俺の元へと駆け寄ってきた。彼女の全身もまた、プロの掃除屋たちとの死闘によって泥と傷にまみれていたが、その瞳だけは、おじさんを守り抜いたという奇妙な安堵感で震えていた。
「行って、いっちゃったね……。あの女の子……」
「ああ……、行って、しまったな」
俺はかすれた声を絞り出し、夜霧の濃尾平野の彼方、完全に闇の中へと溶けて消えた臨時貨物列車の、あの赤いテールランプの残像が残る線路を見つめた。
手首を掴んで、この手で171番コンテナの重い鉄扉のボルトをロックした、あの小さな怪物。
彼女は今頃、暗闇の中で、俺が仕掛けた三条の鉄路のチェス盤が完璧に警察と組織を手玉に取ったことを思い返し、スマホの画面に表示された上海のスタバのオーダー通知を見つめながら、歪んだ愉悦の笑みを浮かべているに違いない。
俺は、自分が救うべき清純な令嬢の面影などではなく、世界を血で染める「本物の悪魔」を、この手で安全圏へと解き放ってしまったという、圧倒的な、底のない絶望に脳髄を灼かれていた。だが同時に、三年前のあの雨の夜、名駅の時計台の下で彼女と交わした「どんなことがあってもお前を逃がす」という身勝手な約束を、ついに最後まで果たし切ってしまったという、ひどく不味くて、ひどく甘い、矛盾した安堵感が胃の底に広がっていくのを感じていた。
バサバサと激しいローター音を響かせ、上空からは警察のヘリコプターの強烈なサーチライトが、俺と凛の身体を昼間のように白々と照らし出した。
直後、十数台のパトカーが急ブレーキの音を響かせてロータリーを埋め尽くし、防弾チョッキを着込んだ機動隊員や私服刑事たちが、拳銃を構えて一斉にホームへと大挙してなだれ込んできた。「動くな、左神豊! 両手を上げろ!」 銃口の檻が、一瞬にして俺の周囲を完璧に包囲する。
その遮るような人込みを割って、一歩一歩、確実な足音を響かせて歩み寄ってくる一人の女性刑事がいた。
ずぶ濡れになりながらも、そのシャープな美貌と冷徹なマニュアル主義の仮面を一切崩さない女。稲沢署の刑事課長――桐生冴子だった。
彼女は制服の帽子から滴る雨水を気にもとめず、床に倒れ伏す俺を見下ろした。その瞳は、いつもの「稲沢の氷壁」としての冷たい品定めの目のままだった。だが、俺の手首にカチャリと冷たい手錠をかけるその瞬間、彼女は周囲の捜査員たちに決して聞こえないほどの、微かな、しかし震えるような低い声で、ポツリと呟いた。「……終わったのね、豊。あんたの負けよ。……でも、あの女の子を無事に、あんたの全人生を賭けて『逃がせた』んなら、この勝負……あんたの本当の勝ちね、馬鹿野郎」
その言葉を聞いた瞬間、俺は初めて、彼女がなぜ「ユタカの車を追え」という主語を曖昧にした無線命令を下したのか、なぜ警察の戦力を東の愛知機関区へと合法的かつ完璧に偏らせてくれたのか、そのすべての「真意」を悟った。
あいつは、昔から規律だのマニュアルだのと言いながら、俺が誰かのために泥水を被るたびに、いつも裏でそのケツを拭うための最上級の『お節介』を焼いてくれていたのだ。中学の頃から、何一つ変わらない、不器用で優しすぎる優等生のままで。
俺は、自分が彼女の本心を「冷たい女」だと誤解し、手柄のために俺を追っていると思い込んでいた己の浅はかさを、激しい自嘲の笑みと共に噛み締めた。
「……ありがとよ、会長。……でもな、ワンモアの二杯目のコーヒーは、もう、すっかり冷めちまったよ」
俺は血混じりの笑みを浮かべ、両手の手錠を冴子の前に差し出した。
激しい豪雨のなか、俺の身体は機動隊員たちによって引きずられるようにしてパトカーへと連行されていく。隣では、凛が「おじさん!」と泣き叫びながら警察官たちに制止されていたが、俺はただ、夜霧の空を見上げることしかできなかった。
ゲートタワーの爆破心中事件を引き起こした主犯、および連続猟奇殺人の容疑者として、探偵・左神豊は、故郷である稲沢の西の最果てで、静かに逮捕された。
しかし、怪物の仕掛けた死の注文は、これで終わったわけではない。
コンテナ船に揺られ、籍を消した透明人間が向かう先。 物語のチェス盤は、日本という狭い街を飛び出し、アジアの巨都、硝煙と珈琲の香りが渦巻く中国・上海へと、さらに最悪のスケールを拡大して引き継がれようとしていた。




