闇に沈む巨大コンテナ(愛知機関区の死線・前編)
深夜二十三時四十五分。
豪雨のカーテンに遮られたJR愛知機関区の広大な敷地は、まるで無数の巨大な墓標が立ち並ぶ、無機質な鉄の迷宮と化していた。
漆黒の闇の中、赤や青、緑の塗装が雨に濡れて鈍く光る貨物コンテナが、何重もの壁となって視界を遮っている。
天井のない巨大な操車場の遥か彼方、雨煙に霞む濃尾平野の闇の中に、稲沢のシンボルである三菱電機の巨大なエレベーター試験塔『SOLAÉ』が、不気味な一本の槍のようにそびえ立っていた。
ユタカの個人タクシーは、機関区の裏手、鉄網のフェンスが途切れた保線用の暗い砂利道に滑り込み、静かにその息の根を止めた。
「旦那、ここまでだ」
運転席のユタカが、ルームミラー越しに血走った目を俺に向けてきた。
「表のロータリーには、すでに機捜の覆面と神楽坂の私設SPがうようよしていやがる。
冴子の『ユタカを追え』って偽無線のおかげで、サツの主力は俺のタクシーのダミーデータを追って西側に分散してるが、本物のプロどもは騙せねえ。奴ら、この東の貨物駅に狙いを絞って、猟犬みたいに鼻を鳴らして待ってるぜ」
「ありがとよ、ユタカ。……凛、レナ、行くぞ」
俺はマウンテンパーカーのフードを深く被り、黒いセダンのバックドアを押し開けた。
車外に一歩踏み出した瞬間、バケツをひっくり返したような豪雨が容赦なく全身を叩きつけ、体温を奪っていく。
長久手で負った脇腹の傷が、冷気によって鋭いナイフで抉られるようにズキズキと痛んだ。
俺はレナの細い手首を壊れるほどの力で掴み、コンテナの隙間へと滑り込んだ。
彼女をこの機関区のどこかにある、国際拠点港行きの『171番コンテナ』へ押し込む――それが、この終わりのない逃亡劇のチェックインのはずだった。
後方からは、包帯をきつく巻き直した凛が、雨に濡れたローファーの音を殺しながらピタリと追走してくる。
その鋭い眼光は、俺たちの周囲の闇を警戒すると同時に、俺の隣でマウンテンパーカーの裾を掴んで楽しげに歩くレナの背中に、刺すような嫌悪の視線を浴びせ続けていた。
ザッ、ザッ、と激しい雨音に混ざって、別の足音が近づいてくる。
コンテナの角を曲がろうとしたその時、俺は本能的にレナの身体を抱き込み、赤錆びた鉄壁の陰へと身を潜めた。
十数メートル先、漆黒のコンクリート通路を、自動小銃を胸元に構えた黒スーツの男たちが三名、鋭い足取りで巡回していた。
神楽坂グループのプロの掃除屋たちだ。
あいつらは、左神豊という探偵を、自分たちの幹部を次々と「スタバのトッピング」で処刑してきた恐るべき国家規模の暗殺者だと信じ込んでいる。
その瞳に宿る恐怖と殺意は、この豪雨の夜をさらに冷たく凍りつかせていた。
「……いない。だが、ネズミの匂いがする」
掃除屋の一人が低く吐き捨て、ナイフの刃を抜くように銃口をこちらへと向け直した。
息を殺す俺の胸元で、レナがクスリと、ぞっとするような小さな笑い声を漏らした。
「ねえ、おじさん。あのおじさんたち、すっごく怯えてる。おじさんの影が見えるだけで、引き金を引いちゃいそうだね。……もしあのおじさんたちが、わたしの『次のメニュー』に気づいたら、どんな顔をして死んじゃうのかなあ」
彼女はマウンテンパーカーのポケットの中で、スマホの画面をそっと光らせた。
液晶の青白い光が、彼女のあどけない童顔を怪しく照らし出す。
画面に表示されていたのは、やはり更新されたスタバの注文画面。
次の目的地を示すシリアルコードが、まるで悪魔のささやきのように冷たく明滅していた。
彼女にとって、この死線も、迫り来るプロの殺し屋たちも、すべては自分の退屈を埋めるための上等なチェス盤に過ぎないのだ。
凛がレナのスマホを奪い取ろうと手を伸ばしかけた、まさにその瞬間。
「――左神ぃぃぃぃっ!!」
激しい雨音の壁を暴力的にぶち破り、夜霧の向こうから、地獄の底から響くような獣の咆哮が操車場に轟き渡った。
千影だ。
妹の監禁コードを玲那に握られ、完全に正気を失った組織の猟犬が、衣服を泥と血で汚した凄惨な形相で、コンテナの闇を割って現れた。
彼の右手には、あの雨の納屋橋からずっと彼の手の一部となっている、黒く輝く特殊警棒が握られていた。
「左神豊! その小娘をそこから動かすな! 妹の居場所を吐き出させるまでは、一歩も通さん!」
千影の瞳には、かつて冷徹だったプロの面影など一片もなかった。
あるのは、肉親を奪われ、怪物のゲームに狂わされた男の、剥き出しの執念と殺意だけだった。
彼の背後からは、異変を察知した神楽坂の掃除屋たちが、一斉に自動小銃の銃口を俺たちに向けて殺到してくる。 東の巨大な車両基地、JR愛知機関区のコンテナの迷宮の中で、三者の思惑と、血生臭いタイムリミットが最悪の交錯を始めようとしていた。
しかしこの時探偵が仕掛けた本当の「三条の鉄路の罠」が、まだ一歩も動き出していないことすら、気づく由もなかった。




