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あの日、スタバで消えた君を、俺は今もベンティサイズの孤独の中で待っている  作者: ルツ


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氷壁の作戦(指揮官・桐生冴子の決断)

 深夜二十三時四十分。 

豪雨の濃尾平野に叩きつけられる雨音が、愛知県警稲沢警察署の三階にある捜査本部の窓ガラスを、まるで容赦のない銃弾のように激しく打ち鳴らしていた。 

室内には、卓上に並べられた何十台もの警察無線機から漏れるザー、ザーという無機質な不協和音と、張り詰めた緊張感が重たく淀んでいる。

パイプ椅子に腰掛けた捜査員たちの視線が集中する中央、ホワイトボードの一等高い場所には、拡大された「左神豊」の顔写真がピンで無造作に留められていた。 その写真を、刑事課長である桐生冴子は、周囲の誰よりも冷徹な眼光で見つめていた。 

三十代後半。一糸乱れぬ警察の制服を凛と着こなし、シャープな目元と磨き上げられたような冷たい美貌を持つ彼女は、署内では「稲沢の氷壁」と恐れられている。

彼女は胸元で腕を組み、室内の沈黙を切り裂くように、硬く張り詰めた声を響かせた。「各班、ホシ(左神)の逃走経路だが、神楽坂グループの協力者から上がったリークの通り、国際拠点港に直結する『JR愛知機関区』からの貨物コンテナによる密航である可能性が極めて高い。全捜査員は東側の敷地周辺を完全に包囲し、網を縮小せよ」

「課長、他のルート、例えば中央の名鉄本線や、幹線の検問をこのまま薄くしておいてもよろしいのですか?」

前線から戻ったばかりの若い刑事が、額の汗を拭いながら問いかけた。冴子は表情一つ変えず、冷淡に言い放つ。

「指名手配犯がわざわざ人目の多い旅客駅を移動に使うはずがない。東の巨大な貨物車両基地が奴の本命よ。機捜の覆面も、神楽坂が配置している私設SPたちの戦闘員も、すべてJR側に回しなさい。……それから、大須周辺の防犯カメラの映像から、ホシに密接に協力していると思われる男の車両が浮上した。名前は『ユタカ』。いい? 容疑者『ユタカ』の車両を発見次第、全班、直ちに確保に向かって」「了解!」 

捜査員たちが一斉に無線を掴んで部屋を飛び出していく。バタバタと騒がしい足音が完全に遠ざかるのを見届けた瞬間、冴子は張り詰めていた肩の力をわずかに抜き、静かに窓の外の激しい雨を見つめた。その鋭い瞳の奥に、誰にも見せない暗い感情の波が去来する。 

彼女は警察の無線システムや捜査マニュアル、人員配置のロジックを完璧に熟知していた。

だからこそ、「JR貨物が本命」という完璧な大義名分を盾にして、警察の総戦力だけでなく、妹を人質に取られて暴走している千影や、神楽坂グループのプロの掃除屋どもをも巻き込んで、戦力をすべて東側の広大な貨物基地へと誘導したのだ。 

さらに、主人公の「左神 ゆたか」と、運転手の「ハゲのユタカ」の名前が同じであることを逆手に取り、あえて「ユタカを追え」という主語を曖昧にした命令を下す。

そうすれば、捜査本部の端末は「ハゲのユタカ」のタクシーのダミーデータに引っ張られ、左神が本当に進むべき足取りの周囲から、警察の包囲網を合法的に消し去ることができる――。 

それは、法を犯さないギリギリのラインで、中学時代の同級生の命を繋ぐために彼女が仕掛けた、最上級の「お節介」だった。 

しかし、そんな彼女の真意を、当の左神豊はこれっぽっちも知らなかった。 

同じ頃、激しい雨を遮るように走る、ユタカの個人タクシーの車内。

「おい左神。サツの無線は完全にJR愛知機関区の方向に引っ張られてるぜ。お前のあの『生徒会長』、まだお前のことを見捨てちゃいないみたいだな」 

ハンドルを握るハゲのユタカが、バックミラー越しにニヤリと笑った。 

だが、俺はマウンテンパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、苦い顔で窓の外の闇を睨みつけることしかできなかった。

「……フン、そんなわけねえだろ。あいつの頭の中にあるのは規律と手柄だけだ。めでたくキャリアを上がって、今じゃ稲沢署の刑事課長サマだからな」 

俺が低く吐き捨てると、隣の助手席でメンズジャケットのフードを深く被った玲那が、クスクスと不気味に笑った。

「冴子の奴は、昔から規則だのマニュアルだのとうるさい、絵に描いたような優等生だ。今頃、俺をこの稲沢で挙げて、自分のキャリアに派手な箔をつけることしか考えてねえよ。今回の包囲網だって、神楽坂のリーク通りに動いて、お決まりのマニュアルを冷酷になぞっているだけさ」 

俺にとって、桐生冴子はどこまでも冷たい「氷壁」の女だった。中学の頃から、俺が誰かのためにお節介を焼いてトラブルを起こすたびに、彼女は「規律を乱すな」「マニュアルに従え」と、その冷徹な正論で俺を弾劾してきたのだ。彼女が俺を信じているだなんて、そんな甘い幻想を抱くほど、俺はロマンチストじゃなかった。あの女は、俺を檻にぶち込むための冷酷なチェス盤を、今まさに完成させようとしているに違いないのだ。

「おじさん、本当にその警察の人、冷たいだけなのかな?」 

後部座席で包帯を巻き直していた凛が、怪我を押さえながら怪訝そうな顔で俺を見た。

「わたし、大江駅でおじさんを逃がしたとき、遠くにあの女性刑事の姿を見たよ。おじさんを追う目が、なんだか怒ってるっていうより……すごく悲しそうに見えた」「気のせいだ、凛。あいつはそういう顔の作りをしてるだけさ。昔から、人の感情を冷たく品定めするような、そんな女だよ」 

俺は凛の言葉を切り捨て、冷え切った身体を震わせながら、ダッシュボードの古い無線機を掴んだ。

「ねえ、おじさん」 

それまで黙ってパスポートを眺めていたレナが、ふいに座席の隙間から顔を突き出してきた。

大きすぎるナイロンジャケットのフードの奥で、異様に大きく見開かれた彼女の瞳が、暗闇の中でらんらんと鈍い光を放っている。

「そのキリュウって警察の人、おじさんを捕まえたら、どんな顔をするのかな? 私、すごく見てみたいなあ。おじさんの手首に冷たい手錠がかかって、絶望で顔が歪む瞬間。きっと、最高に甘い味がすると思うの。ねえ、そう思わない?」 

レナの口元が、あどけない少年の形から、ぞっとするような歪んだ形へと釣り上がった。

彼女の指先が、俺の首元へ向かってゆっくりと伸びてくる。冷え切った死人のような皮膚の感触が、俺の肌に伝わろうとした。

「――触らないで」 

後部座席から、氷を突き刺すような凛の声が響いた。 凛はレナの手首を、痛いほどの力で掴んで引き剥がしていた。

フルコンタクト空手で培われた、本能的な防衛本能が肉体を動かしていた。凛の全身からは、恐怖ではなく、獣のような激しい嫌悪の拒絶反応が噴き出している。

「あなた、本当におじさんを何だと思ってるの? おじさんが自分の人生を全部投げ捨ててまで、あなたを守ろうとしてるのに……。おじさんの破滅を楽しんでるだけでしょ。わたし、あなたのその死んだ魚みたいな目が、心の底から気持ち悪くて吐き気がするの」「あら、怖い」 レナは手首を掴まれたまま、痛がる様子もなく、ただ面白そうに目を細めて凛を見つめ返した。「お嬢ちゃん、そんなに怒らなくてもいいじゃない。わたし、おじさんのことが大好きなのよ? だって、おじさんは世界で唯一、わたしの『オーダー(殺意)』を完璧にこなしてくれる、上等なサードプレイス(入れ物)なんだもの。ねえ、おじさん?」 

彼女は掴まれた腕をぶらつかせながら、再び俺に向けて無垢な笑顔を作ってみせた。

その徹底された二重性の狂気に、俺の心臓は冷たい鉛を詰め込まれたように凍りついた。

凛のレナに対する本能的な嫌悪感は正しかった。

目の前にいるのは、救われるべき悲劇の少女などではない。人の善意を貪り食う、本物のサイコパスだ。

「……二人とも、そこまでにしろ。豊、愛知機関区の裏手へ回り込め。サツが完全に包囲網を完成させる前に、あのコンテナの檻の中に滑り込むぞ」

 俺は凛とレナの視線を遮るように低く怒鳴り、灰色の軽自動車のアクセルを踏み込ませた。 

タクシーはヘッドライトの光を激しく雨に乱反射させながら、巨大なコンテナの影がずらりと並ぶ、JR愛知機関区の漆黒の境界線へと突入していった。

俺たちは、その東の暗闇が、本当は自分たちのための退路ではないことすら、まだ気づいていなかった。

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