世紀の境界線、三条の鉄路(レール)
名鉄常滑線、大江駅。
初夏の生温かい夜気が、天から激しく叩きつけるような豪雨と混ざり合い、視界を最悪の白濁へと染め上げていた。
線路を敷き詰める無数の砂利――バラストが、激しい雨粒を弾いて鈍く光る闇の中、俺は非常用手動コックを力任せに引き下げた。
プシュー、と不機嫌な風圧の抜ける音が響き、緊急停止した特急『ミュースカイ』の重厚な金属のドアが左右にこじ開けられる。
「凛、レナ、走れッ!」 叫ぶと同時に、俺は線路脇の泥濘へと飛び降りた。
容赦ない豪雨が瞬く間に俺のシャツを濡らし、肌を冷やす。
足元を泥にすくわれそうになりながらも、後部座席から引きずり出した少女の手首を強く掴み直した。
大江駅のロータリー周辺には、すでに名東署や愛知県警機動捜査隊のパトカーが何重もの赤い壁を築きつつあった。
赤色灯の禍々しい光が、雨に濡れる遮断機や架線を不気味に浮かび上がらせている。
陸路も、中部国際空港へと続く唯一の空路も、完全に警察と神楽坂グループの残党によって封鎖された。
俺たちは文字通り、袋のネズミだった。
しかし、フェンスを激しく突き破るような勢いで、一台の泥まみれの個人タクシーが猛烈なバックで滑り込んできた。ハゲのユタカだ。
「左神の豊、乗りなッ! サツは完全にセントレアを包囲した。だがな、海へ抜けるルートはまだ残されてるぜ。お前が事前に稲沢の連中に仕込んでおいた、あの『お節介』の伏線がな!」
俺と凛、メンズのナイロンジャケットを深く被った玲那が、激しくドアを開けて後部座席に滑り込む。
ユタカはドアが閉まりきるよりも早く、アクセルを床まで踏み込んだ。
タイヤが空転し、強烈な水飛沫を上げながら、タクシーは名古屋高速の誘導路へと一気に駆け上がっていく。「……稲沢へ向かってくれ、ユタカ。裏のバイパスを使ってな」
俺が低い声で告げると、ユタカはバックミラー越しに、中学時代から少しも変わらない不敵な笑みを浮かべた。「ああ、分かってる。サツの無線は今、神楽坂の残党からのリークで完全に持ち切りだ。『指名手配犯・左神豊は、国際拠点港へ繋がるJR愛知機関区から、夜間の貨物コンテナに潜り込んで密航を企てている』とな。千影の野郎も、組織のプロの掃除屋どもも、全員が稲沢の東側、JRの貨物駅に全戦力を集中させて網を張って待ってるぜ」
ユタカはハンドルを両手で強く握り直し、ワイパーが激しく往復するフロントガラスの向こう、闇に煙る高速道路の先を睨みつけた。
「だがよ、左神。サツの包囲網が、なぜかJR愛知機関区の方にだけ綺麗に偏りすぎてやがるんだ。……おい、お前のあの『生徒会長』、まだお前のことを見捨てちゃいないぜ」
ユタカの言葉に、俺は胸の奥が微かに熱くなるどころか、逆に冷たい塊が胃の底に落ちていくのを感じた。 桐生 冴子。
現在、愛知県稲沢警察署の刑事課長を務める警部であり、俺たちの中学時代の同級生――当時の生徒会長だ。鋭い美貌と冷徹なマニュアル主義から、署内では「稲沢の氷壁」と恐れられている女。
当時から規律を乱してばかりいた問題児の俺とは、ことあるごとに衝突していた、いわば犬猿の仲だった。
「フン、そんなわけねえだろ。あいつの頭の中にあるのは規律と手柄だけだ」
俺はマウンテンパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、苦い顔で窓の外の闇を睨みつけることしかできなかった。
「冴子の奴は、昔から規則だのマニュアルだのとうるさい、絵に描いたような優等生だ。今頃、俺をこの稲沢で挙げて、自分のキャリアに派手な箔をつけることしか考えてねえよ。今回の包囲網だって、神楽坂のリーク通りに動いて、お決まりのマニュアルをなぞっているだけさ」
俺にとって、桐生冴子はどこまでも冷たい「氷壁」の女だった。
中学の頃から、俺が何かお節介を焼いてトラブルを起こすたびに、彼女は「規律を乱すな」と冷徹に俺を弾劾してきた。
彼女が俺を信じているだなんて、そんな甘い幻想を抱くほど、俺はロマンチストじゃなかった。
あの女は、俺を檻にぶち込むための冷酷なチェス盤を、今まさに完成させようとしているに違いないのだ。
「おじさん、本当にその警察の人、冷たいだけなのかな?」
後部座席で包帯を巻き直していた凛が、怪我を押さえながら怪訝そうな顔で俺を見た。
「わたし、大江駅でおじさんを逃がしたとき、遠くにあの女性刑事の姿を見たよ。おじさんを追う目が、なんだか怒ってるっていうより……すごく悲しそうに見えた」「気のせいだ、凛。あいつはそういう顔の作りをしてるだけさ。昔から、人の感情を冷たく品定めするような、そんな女だよ」
俺は凛の言葉を切り捨て、冷え切った身体を震わせながら、ダッシュボードの古い無線機を掴んだ。
冴子に捕まる前に、愛知機関区で待つ「夜勤の整備士たち」の元へと急ぐしかなかった。
窓の外を、高速道路のナトリウム灯の黄色い光が規則的に、そしてドライに走りぬけていく。
警察も、神楽坂も、千影も、全員が俺の「逃し屋」としての手口を、JRの広大な貨物車両基地を舞台にした強行突破だと信じ込んでいる。
俺がこれまでの人生で、稲沢の様々な階層の連中に撒いてきた泥臭い「お節介」という名の種。
それが今、この豪雨の濃尾平野で、あいつらを綺麗にハメるための巨大な罠として覚醒しようとしていた。
「おじさん、また何か企んでるね。まるでお人形を動かすみたいに、街の人たちを動かして」
助手席の玲那が、窓ガラスに映る稲沢の巨大なエレベーター試験塔(SOLAÉ)の無機質な白い影を見つめながら、クスクスと不気味に笑った。
メンズジャケットの大きなフードの庇の下、彼女の白く細い指先は、スマホの画面を優しく、あるいは冷酷になぞっている。
その液晶の向こうには、第三部の舞台となる、日本の外の巨大なサードプレイス――上海の店舗でのモバイルオーダー完了画面が、冷たく、そして美しくチェックインの時を待っていた。
「……ただの、いつものお節介さ。玲那、お前の注文通り、世界の果てまで逃がしてやる」
二十三時三十分。
タクシーは尾張の暗い田園地帯を、水飛沫を激しく撒き散らしながら狂ったように走り抜け、東の巨大なコンテナの群れが佇む、JR愛知機関区の漆黒の境界線へと突入していった。




