偽りのカウントダウン
「そこを動くな、左神豊! 愛知県警だ!」
路地の細い入り口から、何人もの私服警官たちが一斉に拳銃を構えてなだれ込んできた。
アーケードの喧騒を切り裂くように、無機質な警告の声が反響する。
だが、ここは警察の最新設備もマニュアルも通用しない、名古屋最大の混沌――大須の街だ。
その瞬間、シンさんのジャンクショップから、耳を聾するほどのハウリング音が再び大爆発した。
それと同時に、ケバブ屋の外国人店員たちが「サツが一般人をいじめてるぞ!」
「何するんだ!」と叫びながら、野次馬の壁を何重にも構築して路地の入り口を完全に塞ぐ。警察官たちの射線は、大須の「お節介」の肉の壁によって、完璧に遮断された。
「おじさん、こっち! 万松寺の地下通路へ逃げるよ!」 凛が俺の腕を強引に引っ張り、古着屋の裏口から地下の搬入路へと駆け出した。
千影もまた、衣服の下に特殊警棒を隠し、影のように俺たちの背後に従う。
薄暗い地下通路を走り抜け、大須観音駅のコインパーキングに隠してあった、ハゲの豊が手配した別の軽自動車へと滑り込んだ。
激しい雨が、ふたたびトタンの屋根を激しく叩き始める。「ハァ……、ハァ……っ! 間に合って、よかった……」
後部座席に飛び込んだ凛が、額の汗を拭いながら息を切らせていた。その制服の袖は破れ、監禁から自力で脱出した際の生々しい擦り傷がいくつも刻まれている。
「凛、お前……本当に無茶しやがって」
「おじさんを守るのがわたしの仕事でしょ。……それより、そのパスポート、あの女の子に渡すの?」
凛の鋭い視線が、フロントガラスの向こう――雨の街頭の下で、所在なさげに佇んでいるレナ(玲那)の姿を捉えた。
「……渡すさ。それが、俺の最後の仕事だ」
俺はポケットから、偽造パスポートの仕込まれたホワイトモカのカップを取り出し、ドアを開けて外へ出た。 激しい雨の中、玲那は俺の姿を見るなり、「おじさん!」と嬉しそうに駆け寄り、メンズのナイロンジャケットを揺らしながら抱きついてきた。
「すごーい、本当に持ってきてくれたんだ! これでわたし、世界中のどこにでも行けるね」
彼女は俺の手からカップを奪い取り、二重底から取り出したプラスチック製のカードを、愛おしそうに眺めた。その顔は、やはりどこにでもいる、ただの純真な少女そのものだ。
だが、彼女はすぐにスマホの画面を操作し、その発光する液晶を俺の目の前に突き出してきた。
「はい。おじさんへの、次のお仕事のご褒美」
画面に表示されていたのは、自動更新されたスタバの公式アプリの注文確定画面。
『金山駅南口店。明日15時。モバイルオーダー完了』 その注文履歴の末尾には、通常のメニューには存在しない、異様なシリアルコードが入力されていた。
『エスプレッソショット追加×1、キャラメルソース追加×5、バニラシロップ追加×2、氷抜き』
背後で車のドアが開き、千影が鋭い足音を立てて近づいてくるのが分かった。
千影は俺の肩越しにその画面を覗き込んだ瞬間、その切れ長の目を限界まで見開いた。
彼の全身から、これまでの冷徹さを吹き飛ばすほどの、狂気じみた殺気が噴き出す。
「……1・5・2。神楽坂の、地下秘密監禁室のセーフティコードだ……! 玲那、お前、俺の妹の居場所を……!」
千影が特殊警棒を引き抜き、玲那の細い喉元へ突き付けようとした。
だが、玲那はフードの影から、最高に愉しげな大人の笑みを千影に向けた。
「知りたいなら、明日の三時、金山駅に来て。……おじさんが、わたしを安全に特急電車に乗せてくれたら、教えてあげる」
俺は、自分が大須で必死に偽造パスポートを手に入れたことさえも、彼女が千影を「金山」へと誘い出し、次の血の舞台を用意するための、ただのステップに過ぎなかったことを悟った。
怪物の仕掛けた注文は、まだ終わらない。
俺は冷めきった大須の空を見上げ、苦い泥水の味を思い出しながら、激しい雨の中に立ち尽くした。




