大須(オオス)のデジタル・デッド・ドロップ
午前十一時三十分。大須商店街のアーケードは、初夏の湿った熱気と、多国籍な食べ物のスパイスの匂いで満ち返っていた。 古着を漁る若者たち、派手な電子部品のジャンク品に目を輝かせるオタクたち、そして大きな声で行き交う外国人観光客の群れ。名古屋で最も雑多で、最もドライなこの混沌の街は、全国に指名手配された俺と、戸籍を失ったこの怪物が身を隠すには格好の潜伏先だった。「ねえ、おじさん。お腹空いちゃった。あそこの唐揚げ屋さん、すごく良い匂いがするよ」 地味なマウンテンパーカーのフードを深く被ったレナ――玲那が、俺のマウンテンパーカーのポケットの中で、細い指先をぎゅっと絡めてきた。そのあどけない声には、昨夜、地上二百メートルの最上階を火の海に変え、実の父親と身代わりの娘を焼き殺した凄惨な記憶の破片すら見当たらない。「買い食いをしてる時間はない。……十二時までに、あの店に行かなきゃならないんだろ」 俺はポケットの中で、彼女の小さなスマホの画面を親指でそっと押し下げた。 液晶に表示されているのは、昨夜、笹島のトラックの中で提示されたあの狂った注文履歴だ。『ホワイトモカ。エスプレッソショット追加×3、チョコチップ追加×7、キャラメルソース追加×0』 スタバのカスタマイズ画面を模した、世界で一番甘くて残酷な死刑宣告。だが、この「3・7・0」という数字の並びを裏社会のコードに反転させた瞬間、俺の脳内である重要な事実が弾き出されていた。
大須の路地裏、表の観光客が決して立ち入らない雑居ビルの暗がりに、世界中のあらゆる偽造書類を専門に扱う、通称『時計屋』と呼ばれるブローカーの clandestine(隠密)な無線周波数がある。
それが、まさしく「37.0メガヘルツ」だった。
彼女は、俺の「逃し屋」としての手際を試すように、この大須のスタバで、自分を海外へ高飛びさせるための「完璧な本物の偽造パスポート」を受け取れと要求しているのだ。
「うふふ、さすがはおじさん。ちゃんと解読してくれたんだね」
玲那がフードの庇の下から、真っ赤な唇を微かに歪めて笑った。
「大須万松寺店のカウンター。十二時ちょうどに、名前が呼ばれるわ。もし、おじさんが受け取りに失敗して、警察や神楽坂の残党に捕まっちゃったら……そうね。このお洒落な商店街の誰かの口に、今度はどんな甘いソースが詰め込まれるか、わたしにも分からないな」
無邪気な脅迫。彼女の手首を掴む俺の手に、自然と力がこもる。
彼女は俺を「犯人」に仕立て上げながら、同時に、自分を安全圏へと運ばせるための最強の駒として完成させようとしていた。
俺がどれほど彼女の狂気に戦慄しようとも、三年前の玲那との約束を守るためには、この悪魔の要求に最後まで付き合うしかなかった。
「レナ。お前は赤門通のゲームセンターの陰に隠れていろ。十二時十分までに、必ずブツを持って戻る」
「うん。信じてるよ、おじさん。……間違えて、本物のホワイトモカを飲んじゃダメだよ?」
彼女は俺の手を離し、軽やかな足取りで若者たちの雑踏の中へと消えていった。
時計の針は、十一時四十五分を指している。
大須のアーケードの至る所から、不穏な足音と、俺をハメようとする見えない包囲網の気配が、確実に迫りつつあった。




