笹島のアンダーグラウンド2
無線機のスピーカーから、ざらついたノイズ混じりの低い声が返ってきた。
「……左神か。ゲートタワーの上がえらいことになっとるな。ニュースはお前がホシ(容疑者)だと一斉に報じとるぞ」
「罠に嵌められた。だが、言い訳をしてる時間はない。いま笹島のガード下にいる。サツの目が回る前に、この街から俺と……連れを一人、逃がしてほしい」
「ふん、お前さんには昔、うちの若い衆が錦三の揉め事でヤクザに沈められかけたとき、無償でケツを拭いてもらった恩がある。指名手配犯だろうが関係ねえよ。ちょっとそこで待ってな」
無線が切れると同時に、ガード下の暗がりから、一台の錆びついた4トントラックが音もなくバックで近づいてきた。
荷台の観音開きの扉が開き、作業服を着た強面の男が二人、雨の中に飛び出してくる。
「左神の旦那、ここだ! 車はここに乗り捨てろ。あとの処分はこっちでやっとく!」
「レナ、行くぞ」
俺は助手席のドアを開け、彼女の細い手首を掴んで引きずり出した。
「わあ、暗いね。まるでお化け屋敷みたい」
レナ――玲那は、足元のぬかるむ泥水も気にせず、楽しげに俺のコートの裾を掴んでトラックの荷台へと乗り込む。
荷台の内部は、使い古されたパレットや建築資材が乱雑に積まれ、カビと鉄の匂いが充満していた。
扉が背後で重々しい音を立てて閉まると、外の雨音は遠のき、完全な闇が俺たちを包み込んだ。
まもなく、激しい振動と共にトラックが発進する。笹島の吹き溜まりから、警察が血眼で張っている名駅周辺の包囲網へ向かって、俺たちは動き出した。
「ねえ、おじさん。真っ暗で何も見えないね。……でも、おじさんの心臓の音だけは、すごくよく聞こえるよ。トクトクって、急いで走ってるみたい」
闇の中で、衣服の擦れる音がして、玲那の冷え切った身体が俺の胸元にぴったりと寄り添ってきた。
彼女の髪からは、あの長久手で嗅いだバニラビーンズの甘い匂いと、ゲートタワーの最上階で浴びた焦げ臭い硝煙の匂いが混ざり合い、奇妙な頭痛を誘発する。
「お前は、怖くないのか。すべてを燃やして、自分の名前まで消し去って、この先どうするつもりだ」
俺が闇に向かって問いかけると、彼女は俺のトレンチコートのボタンがあった胸元を、細い指先で弄びながらクスリと笑った。
「怖くないよ。だって、パパを殺して、娘も殺して、私はもうこの世界に『いないこと』になったんだもの。今の私は、おじさんの頭の中にしかいない、ただの幽霊。……幽霊は、これ以上何も失わないわ」
その言葉に、俺の背筋を冷たい悪寒が走り抜けた。 彼女が狙っていたのは、復讐という名の終着駅ではなかった。自分を虐げた神楽坂の血を絶やし、自らの存在を戸籍ごとこの世から完全に抹殺することで、何者にも縛られない「完全な怪物」として生まれ変わることだったのだ。
そして俺は、その怪物を世界の果てへと運ぶための、ただの便利な乗り物に過ぎない。
突如、トラックが激しいブレーキ音を立てて停車した。 外から、鋭い拡声器の声が荷台の鉄板を透過して聞こえてくる。
「愛知県警だ! 運転手さん、車を止めて。名駅の事件の緊急配備中だ。荷台の中を見せてもらうぞ!」
――サツだ。
名東署か、あるいは機捜の連中が、笹島の逃走ルートを完全に潰しにかかっていた。
密閉された暗黒の荷台の中で、俺は懐の拳銃にそっと手をかけた。
強くない俺が、ここで機動隊を相手に立ち回れるはずがない。万事休すか。
だが、その時、荷台の外で男たちの怒鳴り声が上がった。「おいおいお巡りさんよぉ! こちとら深夜の突貫工事で一宮まで資材を運ぶ途中なんだよ! 予定が遅れたら損害賠償払ってくれるんか、あぁ!?」
「無線通せコラ! 笹島の元締めの名前出さなきゃ分からんのか!」
トラックの運転手たちだけでない。周囲の路上から、深夜営業を終えた豊の個人タクシーのクラクションが一斉に鳴り響き、高架下の暗がりにたむろしていた日雇い労働者や夜の住人たちが、わざとらしく警察官たちを取り囲んで野次を飛ばし始めた。
「サツが一般のトラックをいじめてるぞ!」「名駅の爆発もどうせお前らの不手際だろ!」
街の「お節介」のネットワークが、この笹島の退廃した闇の中で、一斉に牙を剥いていた。警察官たちが群衆の対応に追われ、ピリピリとした怒号が飛び交う。
「おじさん、見て。みんな、おじさんのために怒ってる。……うふふ、本当に愛されてるね、探偵さん」
玲那は闇の中で、俺のスマホの画面をそっと光らせた。 液晶に映し出されていたのは、またしても更新されたスタバの注文履歴。
次の舞台は、混沌と多国籍の文化が混ざり合う、あの街だった。




