笹島のアンダーグラウンド
名古屋駅のきらびやかな超高層ビル群から、南へわずかに歩いた場所。
線路の高架下が吐き出す湿ったコンクリートの匂いと、煤けたドヤ街の空気が残る笹島の夜は、名駅のそれとはまったく違う、どす黒い闇に支配されていた。
雨はまだ止まない。
俺は灰色の軽自動車を、バイパス沿いにある深夜営業のスタバの、一番暗い駐車スペースの隅へと滑り込ませた。
ワイパーがガラスの雨粒を弾くたび、遠くの名駅で燃え盛るゲートタワーの赤い煙が、バックミラーの端に小さく映り込んでいた。
「……終わったな」
俺はエンジンを切り、ハンドルを握ったまま、死んだ魚のような目でフロントガラスを見つめた。
二十二時ちょうどの大爆発。神楽坂グループの現社長・神楽坂宗一郎は、自ら手動の爆破スイッチを押し下げ、炎の中に消えた。
世間はいま頃、「社長が隠し子のレナを道連れに無理心中を図った」というニュースで持ち切りだろう。
玲那が思い描いた通りの完璧な『心中事件』の成立。 そして現場に残された俺のボタンと血の滲んだカップによって、俺は社長親子を爆殺した最優先指名手配犯となった。
「おじさん、そんなに落ち込まないでよ。ほら、これ。温かいよ?」
助手席から、小さな手が見慣れたスタバの紙コップを差し出してきた。ドリップコーヒー。ブラック。
差し出してきたのは、白いワンピースを真っ赤な炎の煤で汚した少女――いや、身代わりの娘を焼き殺し、戸籍を失い、この世から完全に籍を消し去った透明人間、玲那本人だった。
「おじさんは警察からも、神楽坂の残党からも追われる身になっちゃった。でもね、これで本当にお揃い。おじさんにはもう、帰る場所も、待つべき日常もどこにもない。……ねえ、嬉しいでしょう?」
玲那はあどけない童顔の頰を微かに上気させ、心から俺の破滅を祝福するように微笑んだ。その瞳の奥には、すべてを焼き尽くした充実感と、底知れない狂気の火の粉が冷たく燻っている。
俺は無言で彼女からカップを受け取り、熱い液体を喉に流し込んだ。
いつも通りのブラックの苦みが、さっきの爆風で焼けた喉に容赦なく刃のように突き刺さる。
不味い。
人生で一番不味いコーヒーだ。
凛の言葉が、脳裏をよぎる。
『あの女の子は人間じゃない。おじさんを騙して、みんなを殺させてるんだよ!』
分かっているさ、凛。
だがな、俺のような薄汚れた男には、この冷めきった泥水を最期の一滴まで飲み干すことしか、もう残されていないんだ。
「豊、すまないがもう一度だけ、お前さんの『お節介』を貸してくれ。……名駅の包囲網を抜けて、地下へ潜るぞ」
俺はダッシュボードの古い無線機を掴み、笹島の闇に潜む、かつて命を救った夜の住人たちへ向けて、低く声を絞り出した。
手首を掴んだこの「名前を失った怪物」を連れて、警察と組織の裏をかく、本当の命懸けの逃亡生活が、この笹島の吹き溜まりから始まろうとしていた。




