本当の心中事件
静寂が戻ったはずの役員室に、玲那の構える銃口が冷たく突きつけられていた。
システムによる自動爆破は止まった。
しかし、彼女の引き金にかかる指には、一切の躊躇がなかった。
「……さようなら、おじさん。わたしの甘い夢を壊した人」
玲那が引き金を引く、まさにその刹那だった。
「神楽坂の小娘が、調子に乗るなッ!」
背後から千影の咆哮が響いた。
彼は床に散らばる強化ガラスの破片を、革靴の先で猛烈な勢いで蹴り飛ばした。光の粒となったガラス片が玲那の顔面を襲い、彼女は思わず腕で顔を覆って後退する。 その一瞬の目眩ましを、千影という猟犬が見逃すはずがなかった。
弾丸のような踏み込みで間合いを詰め、放たれた特殊警棒の強烈な一閃が、玲那の細い手首を正確に捉えて拳銃を床へと叩き落とした。
「終わりだ」
千影が冷酷に警棒を振り上げ、彼女の脳天へ向けて振り下ろそうとした。
その軌道の前に、俺は自らの身体を割り込ませた。
鈍い衝撃が俺の背中に走り、激痛が肺の空気を力任せに押し出す。
「がはっ……!?」「左神、なぜ邪魔をする!」
千影が信じられないものを見る目で俺を睨みつける。俺は痛む身体で玲那を背後に隠し、息を切らしながら千影を見据えた。
「こいつの身柄は俺が『逃がす』。……お前の妹の居場所を、この口から吐かせるまでは、死なせないと言ったはずだ」
俺たちの間で火花が散りかけた、その時だった。
二十一時五十九分。
部屋の隅から、獣のような、狂気に満ちた呻き声が聞こえてきた。
「……う、あ……、あああああ!」
死んだと思われていた社長、神楽坂宗一郎だった。致死量のキャラメル(毒)を流し込まれ、
虫の息だったはずの巨体が、最後の悍ましい生命力を振り絞って立ち上がっていた。
彼は血走った目で、自分が盲目的に愛し、そして自分と娘を殺そうとしていた愛人(玲那)を凝視した。
裏切られた絶望と恐怖が、彼の理性を完全に狂わせていた。
「玲那……お前、最初から俺を……! 我が神楽坂の血を、全て絶やす気だったのか!」
宗一郎の右手に、小さな、錆びついた金属製のデトネーター(手動爆破スイッチ)が握られているのを、俺の目は確かに捉えた。
「全員、地獄へ付き合えぇぇぇ!」
止める間もなかった。宗一郎が狂ったように笑いながら、そのスイッチを深く押し下げた。
システムによるスマートな自動心中は、スタバのネットワークによって阻止された。だが、狂った人間の物理的な執念までは、ハッキングできなかった。
役員室の真裏にある、高圧電流コントロールルームに仕掛けられていた予備の爆薬が、耳を聾する爆音と共に一気に炸裂した。
ドゴォォォォン!!! 地上二百メートルの上空で、視界のすべてが真っ赤な炎と爆風に包まれた。
床が激しく陥没し、神楽坂宗一郎の巨体が、そして玲那がこの心中事件の生贄として事前に奥の部屋に監禁していた「身代わりの少女(本物の娘・レナ)」の身体が、一瞬にして容赦ない烈火の中に飲み込まれていく。
二十二時ちょうど。
世間には「神楽坂グループの社長が、世間に隠していた実の娘を道連れに、最上階で無理心中を図った」という、玲那が描いた通りの完璧な『心中事件』がここに成立した。
「左神、ここはもう持たん! 脱出するぞ!」
千影は崩落する天井の瓦礫を避けながら、瀕死の宗一郎の身柄を強引に掴み、煙の渦巻く非常階段のルートへと姿を消した。
炎の壁が、俺と外の世界を隔てていく。
ガラス窓がすべて吹き飛び、夜空から激しい雨風が室内に吹き込んできた。
目の前では、火の海と化した役員室の奥へ、一人の少女がふらふらと歩みを進めようとしていた。戸籍を失い、身代わりを焼き殺し、この世から完全に存在を消し去った透明人間――玲那だ。
「……玲那!」
俺は猛火の中に飛び込み、彼女の細い手首を力任せに掴んだ。
熱風がトレンチコートを焼き、皮膚を焦がす。掴んだ手首からは、骨が軋むほどの抵抗を感じたが、俺は決してその手を離さなかった。
炎に照らされた玲那が、ゆっくりとこちらを振り返った。
その童顔の頰には、恐怖の涙など一片もなかった。彼女は真っ赤な炎の嵐をバックにして、三年前のあの雨の夜よりも、ずっと愉しげで、ずっと歪んだ大人の笑みを俺に向けた。
「おじさん、合格。……さあ、私をこの街から、安全なところへ『逃がして』みてよ」
俺は彼女の手を引いて、崩落する最上階の地獄から走り出した。
現場に残されたのは、俺のちぎれたコートのボタンと、血の滲んだスタバのカップ。
警察からは「社長の心中を引き起こした主犯、および連続猟奇殺人の容疑者」として、俺の全国指名手配が決まった瞬間だった。
すべてを失った探偵と、名前を無くした怪物の、本当の「命懸けの逃亡劇(第二部)」の幕が、今、最悪の炎の中で上がろうとしていた。




