最上階のサードプレイス
チン、という軽薄な電子音が、今度は静寂を破るように響いた。 専用エレベーターのドアが左右に開いた瞬間、目の前に広がったのは、地上二百メートルを誇る神楽坂グループの総本山――社長役員室だった。壁一面がガラス張りになったその部屋からは、雨に濡れる名古屋の街並みが、まるで光の海のようにどこまでも広がっている。 だが、その美しい夜景を背景にして、室内の空気は完全に歪みきっていた。「……ふふ、遅かったね、左神さん。コーヒーが冷めちゃうよ?」 部屋の最奥、革張りの高級ソファに、一人の男がぐったりと座らされていた。現社長・神楽坂宗一郎だ。彼は目を剥いたまま意識を失っており、その口元からは、粘り気のあるあの甘ったるいキャラメルソースが、まるで毒の泡のように一筋溢れて床を汚していた。
そしてその傍らで、白いワンピースを纏った「レナ」――いや、あどけない童顔の皮を被った悪魔、玲那が、スマホを片手に静かに佇んでいた。
「神楽坂宗一郎……! すでに毒を盛ったか!」
千影が拳銃を構え、鋭い踏み込みで間合いを詰めようとした。
だが、玲那はその銃口を意に介さず、スマホの画面をトントンと指先で叩いた。
「動かないで、猟犬さん。あと五分で、このビルのガス供給システムが最大出力で火花と同期するの。私とパパ、そしてあなたたちも一緒に、この街の綺麗な夜景の一部になるんだから。……もちろん、世間には『猟奇殺人犯の左神豊が、社長親子を無理心中に見せかけて爆殺した』ってニュースが流れる手筈よ」
彼女のスマホの画面には、ビルの基幹システムを完全にハッキングしたデジタルタイマーが、残り『四分』を告げて赤く明滅していた。
「玲那……、もう止めろ。こんなことをしても、三年前の先代社長は喜ばない」
俺が低い声で切り出すと、玲那は悲しそうに眉をひそめ、それから一転して、ぞっとするほど無垢な笑顔を浮かべた。
「喜ぶわよ。だってパパは、私とこの男のせいで死んだんだもの。……ねえ、左神さん。あなたは『逃し屋』でしょう? 私がこんな怪物のままで死ぬのが嫌なら――私をここから逃がしてよ。あなたの、その汚くて完璧なテクニックで」
玲那は懐から小さな護身用の拳銃を取り出すと、自らの白い喉元に銃口をピタリと突き立てた。
「私を、あの日のスタバに戻して。……それができないなら、今ここで、おじさんの目の前で死んであげる」 残り時間、三分。
激しく鳴り響くビルの警告アラームの真っ赤な点滅の中で、俺は冷めかけたベンティサイズの紙コップを握り締めたまま、立ち尽くした。




