エレベーターシャフトの死線
ジャミングが成功した瞬間、ゲートタワーのバックヤードは、無機質な静寂から一転して「戦場」へと姿を変えた。
監視カメラのレンズが一斉に死んだ魚のように下を向き、上層階の役員室へと直通する専用エレベーターの制御ロックが強制解除される。
俺と千影は、迷わずその金属の箱へと飛び込んだ。
千影がパネルの「最上階」のボタンを乱暴に叩きつける。「左神、ジャミングの猶予は長く持って十分だ。
それを過ぎれば組織のバックアップサーバーが起動し、俺たちはこの箱の中で燻製にされるぞ」
「分かっている。……上等なスピード勝負だ」
俺は、キョウコさんから手渡されたベンティサイズの紙コップを左手に握り、右手にはスタバのバックヤードから咄嗟に持ち出してきた、「ホットコーヒー用の大型ステンレス製サーモス(保温魔法瓶)」の重みを感じていた。
ズッシリとした金属の感触と、その内部に閉じ込められた沸騰寸前の熱湯が、手のひらを通じて伝わってくる。これが、強くない俺の持ちうる、唯一の武器だった。 チン、という軽薄な電子音が鳴り、エレベーターが四十階層付近で突如として緊急停止した。
やはり簡単には上らせてくれない。
外の廊下から、完全に武装した神楽坂グループの私設SPたちの、統率された足音が近づいてくるのが分かった。「来るぞ、探偵」
千影が黒いコートの裾を翻し、奪い取った自動拳銃のボルトを引いた。
金属同士が噛み合う冷たい音が、狭いエレベーター内に響き渡る。
プシューッ、と金属のドアが左右に開いた瞬間、目の前の廊下を固めていた三人のSPが一斉に銃口をこちらに向けた。
「そこまでだ、左神――」
「そこまでなのは、お前たちの注文の方だ!」
男たちが引き金を引くよりも早く、俺は抱えていた大型サーモスの安全弁を親指で跳ね上げ、目の前の空間に向けて力任せに振り抜いた。
シュウゥゥゥゥッ! という凄まじい噴射音と共に、サーモスの内部で限界まで加圧されていた「沸騰寸前の熱湯と、濃厚なコーヒーの蒸気」が、高圧の霧となって廊下へ向けて一気に解き放たれた。
「ぐあああああっ!?」
「目が、目が開かん! 痛えっ!」
濃密な珈琲の香りを孕んだ熱湯の直撃を受け、SPたちが顔を押さえて悶絶する。
彼らの完璧だった射線が、一瞬にして真っ白な湯気の中に掻き消えた。
その視界ゼロの空白を、千影という名の猟犬が完璧に捉えた。
「神楽坂の犬ども、どけッ!」
千影は容赦なく踏み込み、銃のグリップで一人目の顎を砕き、二人目の膝の関節を特殊警棒の打突で冷徹に破壊していく。
跳ね上がった血飛沫が、廊下の白い壁にスタバのキャラメルソースのような軌跡を描いて飛び散った。
三人目の男が盲目的に銃を乱射しようとしたが、千影はその銃身を掴んで捻り上げ、男の身体をごみ屑のように壁へと叩きつけた。
わずか十秒足らずの制圧。圧倒的な暴力の嵐が、そこには吹き荒れていた。
「……手際が良いな、探偵」
千影は荒い息を吐きながら、空になったサーモスを床に捨てた俺を、鋭い目で一瞬だけ見つめた。
「街の喫茶店の道具も、使い方次第ってことさ。……急ぐぞ、二十二時まであと十五分だ」
俺たちは倒れたSPたちの身体を跨ぎ、再び動き出したエレベーターへと駆け込んだ。
上昇を再開した箱の中で、俺の左手のドリップコーヒーは、少しずつ、だが確実に冷め始めていた。
地上二百メートル、あの怪物が待つ最上階のサードプレイスまで、あともう一息の距離だった。




