決別の一歩、心中への最終オーダー
爆発の衝撃波が、軽自動車の車体を大きく揺らした。 バックミラーの向こう、夜の闇に包まれていた港湾の倉庫街が、今は巨大な篝火のように真っ赤な炎を噴き上げている。港の男たちが作ったトラックの渋滞も、機動隊のバリケードも、すべてがその圧倒的な光の中に飲み込まれていく。 俺はアクセルを踏み込み、煙を上げる金城ふ頭を後にした。車内には、激しい焦燥感と、シートの隙間から漂う煤の匂いが満ちていた。「ハァ……、ハァ……っ、おじさん……!」 後部座席で横たわる凛が、痛む身体を引きずるようにして身を起こした。彼女の制服は破れ、額からは一筋の血が流れている。そのフルコンタクト空手で鍛え上げられた瞳が、今は激しい恐怖と憎悪に染まり、助手席を見つめていた。「おじさん、騙されないで! その女は……そのレナって女の子は、人間じゃない……!」 凛の指が、助手席のレナを鋭く指差す。「藤が丘の配達員を殺したのも、星ヶ丘の男たちをキャラメルで窒息させたのも、全部この女だよ! モバイルオーダーを使って、まるでお店のメニューを頼むみたいに人を殺してるんだ! おじさんを犯人にするために……!」 凛の魂の叫びが、狭い車内に虚しく響き渡る。 だが、助手席のレナは、窓の外を流れる錦三丁目のネオンを静かに見つめたまま、微動だにしなかった。彼女の横顔は、やはりどこにでもいる、少し物静かな女子高生そのものだ。「静かにしろ、凛」 俺は低い声で言った。バックミラー越しに凛の目を見つめる。その目は、冷たく、そして酷く諦めを含んでいた。「おじさん……? なんで、なんでそんな、分かってるような顔してるの……?」「……俺は、最初から知っていたさ。星ヶ丘のカードを見たときからな」 俺の言葉に、凛が息を呑む。 俺は知っていた。あの子が送ってきた『入ってもいないキャラメルソースを抜け』という最初の暗号。それは、周囲に異分子が紛れ込んでいるというSOSなんかじゃなかった。『余計なものは全部排除して、私だけを正しく追ってきなさい』 彼女は、俺の「お節介」と「人情」という性質を完璧に理解し、それを利用して自分を組織の護衛網から引きずり出させ、海外へ逃亡するための最強の「盾」として俺を育て上げたのだ。 俺が彼女のために命をかけ、街を巻き込んで暴れれば暴れるほど、組織の人間は一箇所に集まり、そして彼女の仕掛けた「スタバの罠」で一網打尽にされていく。
「おじさん……、じゃあ、なんで……」
凛の声が、絶望に震える。
「約束したんだよ。三年前、あの雨の名駅で、玲那とな。俺が死んでも、あいつを、あいつが遺したものを、この街から安全に逃がすと」
たとえ、その中身が血塗られた怪物に成り果てていたとしても、俺はあの温かいコーヒーの味を、彼女の震える唇の熱を、裏切ることだけはできない。
その時、助手席のレナが、静かにスマホの画面を俺の前に差し出してきた。
液晶に表示されていたのは、自動更新されたスタバの公式アプリの画面。
そこに、本日四回目の「チェックイン」が完了したことを示す通知が、冷酷に光っていた。
『神楽坂グループ本社ビル店。14日22時。モバイルオーダー完了』
オーダーシートの末尾に記載されたカスタマイズの指定は、ベンティサイズを遥かに超える、この世のメニューには存在しない特別なコードだった。
それは、彼女が神楽坂グループの現社長・神楽坂宗一郎を道連れにし、すべての罪をこの俺に着せて、自分だけが「死んだ娘」になりすまして世界から消滅するための、最悪の「心中事件」への最終チェックインを意味していた。
「おじさん、次で最後。わたしの、一番大好きな、特製のラテを作って待ってるね」
レナが、かつてないほど愛おしそうな目で俺を見つめ、あどけない声で微笑んだ。
俺は、熱さで痺れた舌を動かすように、乾いた唇を開いた。
「あ首を洗って待ってろ、お嬢ちゃん。……俺の分のブラックコーヒーも、ワンモアで用意しておけ」
灰色の軽自動車は、夜の名古屋の心臓部、名駅の高層ビル群へと向かって、狂ったようにアクセルを踏み込んでいく。
ベンティサイズの孤独を飲み干すための、最後の騙し合いが、今夜十時、地上二百メートルのスタバで幕を開けようとしていた。




