地下倉庫の死線、千影の強襲
神楽坂グループの私設倉庫の内部は、外の生温かい雨とは無縁の、鉄と油の冷たい匂いに満ちていた。
天井の剥き出しの蛍光灯がチカチカと不快な瞬きを繰り返し、湿ったコンクリートの床に俺の足音がかすかに響く。
港湾の仲間たちが引き起こした大渋滞によって、外の警備網は完全にパニックに陥っていた。
その混乱の隙を突き、俺は千影から送られてきた図面通りに、建物の裏手にある非常用ダクトから単身で地下へと潜り込んでいた。
俺の手には、長久手でレナに手渡されたあの『コールドブリュー』のプラスチックカップが握られている。ベンティサイズの容器に対して、中身はトールサイズ分だけ。
不自然に空いたその空間が、今も地下室で削り取られているであろう凛の残された『酸素の猶予』を象徴しているようで、指先が凍りついたように冷たくなる。
「……十四時を過ぎて、もう二時間が経つ。これ以上は、あの子の肺が持たない」
階段を静かに下りきると、重厚な鉄の扉の向こうから、荒々しい男の怒声が漏れ聞こえてきた。
「吐け! 左神の野郎は今どこにいる! 次はどの店に爆弾を仕掛けるつもりだ!」
藤が丘で凛をスタンガンで襲った、あの神楽坂の幹部だ。あいつらは左神豊という存在を、自分たちを一人ずつ「スタバの味」で処刑していく、正体不明の恐るべき国家規模の暗殺者だと思い込んでいる。
恐怖が男たちの理性を完全に焼き切っていた。
俺が鉄扉のノブに手をかけた、まさにその瞬間だった。 ズドォォォン! という、鼓膜を激しく震わせる爆音と共に、地下室の天井を這う排気ダクトの鉄板が派手に吹き飛んだ。
「がはっ!?」
落下してきた鉄塊と強烈な爆風に直撃され、凛を囲んでいた二人のSPが、呻き声を上げて床に転がる。
砂煙が渦巻く闇の向こうから、鋭利なナイフそのものの殺気を纏った影が静かに着地した。
千影だ。
彼は雨の納屋橋のときと同じ、黒い防水コートの裾を翻し、手にした特殊警棒を恐るべき速度で一閃させた。
「神楽坂の飼い犬ども、俺の妹をどこへやった! 吐き出さなければ、ここで全員の首の骨を折る!」
「ち、千影……!? なぜお前がここに!」
幹部がうろたえ、腰のホルスターから銃を引き抜こうとする。
だが、千影の動きはその数倍速かった。
踏み込みの一歩で間合いを詰め、幹部の手首を警棒の打突で容赦なく砕く。
「ぎゃああああ!」 室内に、骨の砕ける嫌な音が響き渡り、拳銃が乾いた音を立てて床を転がった。
圧倒的な武力。
強くない俺とは次元の違う、本物の「猟犬」の躍動だった。
千影は流れるような動作で残りのSPの膝を蹴り折り、一瞬にして地下室の戦力を無力化していく。
しかし、砕かれた手首を抱えた幹部が、狂ったような笑い声を上げて叫んだ。
「ハハハ! 殺せよ! だがな、その小娘の椅子の下を見てみろ!」
千影の動きがピタリと止まった。
紐で固く縛り付けられた凛の足元、パイプ椅子の座面の真裏に、デジタルタイマーの赤い数字が不気味に明滅するプラスチック製の爆発物が設置されていた。
残り時間は、あと一分もない。
「左神豊に伝えろ! 組織の全員を殺すつもりなら、まずは自分の身内から灰にしてみせろとな!」
幹部が残った左手で、懐から起爆スイッチを突きつける。
万事休す。
千影の鋭い眼光が、俺の隠れている扉の方へと向けられた。
「おい、探偵。そこにいるのは分かっている。
お前の『人情』とやらで、この状況をどうにかしてみせろ!」
俺は深くため息を吐き、重い鉄の扉を押し開けて室内へと足を踏み入れた。
手には、あの冷めきった『コールドブリュー』のカップ。
「神楽坂の。……悪いが、俺はコーヒーに氷を入れない派なんだ」
俺は戦うのではなく、そのプラスチックカップを幹部の足元へと力任せに転がした。
パリン、と蓋が外れ、中から転がり出たのは黒い液体ではない。
港湾の仲間から「いざという時の煙幕代わりに」と譲り受けていた、船舶救命用の高濃度発煙筒だった。
激しい着火音と共に、視界を完全に遮断する濃密な白煙が、一瞬にして狭い地下室を埋め尽くした。




