狂ったレシピと、猟犬のコンタクト
名古屋市郊外の、地平線まで灰色のスクラップが積み上がった廃車置き場。
初夏の生温かい雨が軽自動車のルーフを激しく叩き、車内には湿気と古いシートのオイル臭が充満していた。 俺は血走った目で、助手席のレナから提示されたスマホの画面を凝視していた。
液晶の放つ冷たい青白い光が、俺の網膜をチカチカと刺す。
『コールドブリューコーヒー。バニラシロップ追加、氷なし、カップサイズ変更(ベンティ容器にトール分)』「おじさん、そんなに怖い顔でスマホを見つめて、わたしの注文、何かつじつまが合わないところでもあった?」
レナが小首を傾げ、ワンピースの裾を弄びながら無邪気に笑った。そのあどけない微笑みとは裏腹に、彼女の指先は驚くほど冷え切っている。
俺は喉の奥に込み上げてくる酸っぱいものを無理やり飲み込み、スタバの仕様を脳内で反芻しながら、その文字列を解読していった。
『コールドブリュー』――十四時間以上かけて水でじっくり抽出するコーヒー。
つまり、陽の光が一切差し込まない『地下』。
『氷なし、ベンティ容器にトール分』――余分なスペース。これは容器の中の空気、すなわち充満する『酸素』の猶予を意味している。窒息死させるためのリミット。 店舗の位置情報とトッピングコード。
それらを名古屋の立体地図に重ね合わせた瞬間、最悪の答えが導き出された。
場所は、港区の臨海工業地帯にひっそりと佇む、神楽坂グループの私設倉庫の地下室だ。
「……早く行かないと、コーヒーが温くなっちゃうよ、おじさん」
レナの唇が、愉悦に歪んだ。彼女は知っているのだ。そこに、俺の唯一の肉親である凛が、椅子に縛り付けられて息を潜めていることを。
組織と俺を殺し合わせるために、あいつらは凛をさらった。そして目の前の怪物は、それすらも自分の復讐劇の駒として利用し、楽しんでいる。
激しい怒りと、底のない絶望が、俺の心臓を雑巾のように絞り上げた。
その時、俺のポケットの中で、旧式のスマホが不快なバイブレーションを響かせた。
画面に表示されたのは『非通知設定』の文字。 レナの視線を遮るように背を向け、通話ボタンを押す。「……左神か」
耳を刺したのは、あの雨の納屋橋で、川面にスタバのカップを投げ捨てた男の声だった。
神楽坂グループの猟犬でありながら、妹を組織に消され、復讐のために街を彷徨う男――千影だ。「千影……。なぜお前がこの番号を」「組織の通信網をハッキングしていたら、お前の姪のコードが引っかかった。藤が丘でお前を逃がしたあのフルコンタクト空手の小娘、今、港区の私設倉庫の地下に転がされてるぞ」 千影の声は、剃刀のように鋭く、そして酷く焦燥していた。
「組織の連中、長久手でお抱え弁護士を消された件でお前に完全に怯えてやがる。お前を『スタバの死神』と呼んで、パニックを起こした犬みたいに牙を剥いてるぞ。小娘の命は持ってあと数時間だ」
千影はフッと鼻で笑った。「勘違いするなよ。俺はお前を助けるつもりはない。だが、あいつらがパニックを起こして小娘を殺せば、俺が追っている妹の居場所の手がかりも灰になる。……図面を送る。正面の護衛網は俺がこじ開けてやる。お前は裏から這い入れ、探偵さん」 スマホが震え、倉庫の内部構造を示すデータが滑り込んできた。
敵だと思っていた男。だが、彼もまた、玲那という幻影に狂わされ、泥水の味を知るもう一人の孤独な捜索者だった。
「豊、車を出せ。港区、金城ふ頭の倉庫街だ。……最後の『お節介』を焼きにいく」
俺は、助手席でじっとこちらを観察しているレナの頭を、わざとらしく優しく撫でた。
あどけない少女の皮を被った悪魔は、俺のその手付きを、満足そうに目を細めて受け入れていた。




