パトカーのサイレン
パニックに陥った客たちの叫び声と、激突した車のクラクションが鳴り響く中、ガソリンの焦げる臭いと白い煙がテラス席の瓦礫の中に充満していった。
誰もが我先にと逃げ惑う地獄絵図だ。
「左神さん、早く! サツのサイレンがもう目と鼻の先まで来てる! こっちのバイクの後ろに乗って!」
騒動を起こしたバイクの若者の一人が、床から立ち上がった俺の腕を強引に引っ張った。
俺は砕けたガラスの破片を革靴の底で踏みつぶしながら、パトカーの赤い光が視界に入る前に、激越する現場から這うようにして走り去った。
肩で息を切りながら、路地裏に停めてあった灰色の軽自動車の運転席に戻ると、レナは何事もなかったかのように助手席にちょこんと座り、膝の上で白いワンピースの裾を丁寧に整えていた。
その手付きは、まるでお気に入りの人形のドレスを直しているかのように穏やかだった。
「大変だったね、おじさん。お洋服、泥とガラスで汚れちゃったよ。怪我はなかった?」
彼女の細い指が、俺のコートについた土汚れを優しく払う。その小さく温かい手付きには、先ほど目の前で人間一人が巨大な鉄の塊に押し潰されて肉塊になった恐怖など、一片の破片すら存在していなかった。
俺は奥歯が痛むほど噛み締め、無言でアクセルを踏み込んだ。長久手の豊かな緑の風景が、バックミラーの中でパトカーの赤い反転灯の光に禍々しく染まっていく。 俺がどれほど街の「人情」という名の繋がりを動かし、必死に彼女の犯罪を先回りして阻止しようとしても、それは彼女が描く「心中」という壮大な破滅のシナリオの上を、気持ちよく走らされているに過ぎない。
その圧倒的なコントロール感と、自分の無力さが、冷たい鉛の塊のように俺の胸を強く締め付けた。
ふと自分の足元を見ると、長久手店のテラス席でSPともみ合った際、俺のトレンチコートの古びたプラスチックのボタンが一つ、ちぎれて現場の床に落ちていたことに気づいた。
警察はそこに残された指紋と衣類の繊維から、俺の容疑を完全に決定づけるだろう。
街を救おうとした探偵は、今や名実ともに愛知県警が総力を挙げて追う指名手配の猟奇殺人犯となったのだ。「おじさん、次のオーダー、もう通しておいたよ。今度はもっと、苦いお薬が必要みたい。おじさんの大好きな、ブラックコーヒーみたいなお薬」
レナが、冷たい光を放つスマホの画面をこちらの目の前に提示する。
そこにはまた、次の犯行場所と日時を示す、不自然なトッピングの羅列が不気味に、そして楽しげに光っていた。
俺はそれから目を背け、ただアクセルを強く踏み込むことしかできなかった。




