届かなかった手
13時55分。
スタバの店内には、コーヒー豆を細かく挽く豊かな音と、平穏なアコースティックギターのBGMが心地よく流れていた。
お洒落な私服に身を包んだ大学生や、ノートPCを開くノマドワーカーたちがそれぞれのサードプレイスを楽しんでいる。
だが、ガラス扉を隔てたテラス席の最奥に座る初老の男――神楽坂グループのお抱え弁護士、藤田の周囲だけは、張り詰めた黒スーツの威圧感がその空間の空気を完全に凍り付かせていた。
「ヘーゼルナッツのカフェミストでお待ちの、フジタ様」
カウンターの向こうから、若い女性バリスタの澄んだ声が響き渡った。
弁護士の指示を受けたSPの一人が無言で立ち上がり、トレイに乗せられた、湯気を立てる『死のドリンク』を受け取る。
俺は歩調を早めた。
変装のための野球帽の庇を片手で抑え、テラス席へと向かうための重いガラスのドアを押し開ける。
ヒンジが軋む音が、俺の耳に妙に大きく響いた。
「待て、それを飲むな! そのコーヒーに口をつけるんじゃない、藤田!」
俺の遮るような叫び声に、テラス席にいた弁護士と二人のSPが一斉に鋭い視線をこちらへ向けた。
「何だ、お前は――。不審者か、下がれ!」
即座に、体格の勝るSPの一人が猟犬のような速さで踏み込んできて、俺の胸ぐらを強引に掴み、コンクリートの硬い床へと力任せに押し付けた。
かつてどれほど優秀な警護員だったとしても、年齢を重ね、不摂生と度重なる乱闘で傷ついた今の俺の身体では、現役のプロのパワーに刃向かうことすらできず、無様に組み伏せられるしかなかった。
「離せ! そのコーヒーには毒が入っているんだ! 藤田、お前はグループの連中に狙われているんだよ!」 床に顔を押し付けられ、口の中に砂の味が広がりながらも、俺は声を枯らして叫び続けた。
その瞬間、店の前の公道から、鼓膜を震わせるような凄まじい爆音が連続して轟いた。
「おい! そこで何やってんだ! 邪魔だろ、どけよ!」 地元の大学生たちが駆る数台のカスタムバイクが、わざとらしくテラス席のすぐ横の歩道に乗り上げ、凄まじい空ぶかしの音と煙を巻き上げたのだ。
周囲の一般客が悲鳴を上げ、SPたちの注意も一瞬、その暴走族まがいの大爆音へと完全に釘付けになった。
視線が逸れた、ほんのわずかな空白の時間。
俺は必死にSPの抑え込む腕を振り払い、床を這うようにして、テーブルの上に置かれたあの白い紙コップへと手を伸ばした。
これを叩き落とせば、とりあえずの死は防げる。
だが、俺の指先は、その温かいコップの表面にあと数センチのところで届かなかった。
キィィィィッ! という、脳髄を直接引っ掻くようなブレーキの異常な金属音が、すべての爆音を掻き消して響いた。
駐車場の一角に停まっていたはずの、弁護士が自ら乗ってきた黒塗りのレクサスLSが、運転席に誰も乗っていない無人の状態のまま、凄まじい煙を上げてバックしてきたのだ。
車は猛烈な速度でテラス席を取り囲むウッドフェンスを紙細工のように粉砕し、鉄製のテーブルごと、藤田の身体を正面から背後の壁に向けてなぎ倒した。
「う、あ……!」
短い肉声の悲鳴と、ガラスが派手に砕け散る音が長久手の空に響き渡った。
レクサスはそのまま店舗の頑丈なコンクリート壁に激突して、ボンネットから白い煙を上げてようやく止まった。ひっくり返ったテーブルと車の車体の隙間からは、大量の鮮血が静かに、だが確実に流れ出し、灰色の路面をじわじわと汚していく。
藤田は即死だった。
騒然となり、パニックに陥った一般客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う現場の片隅。
俺は、店の敷地の外にある生い茂る植え込みの影に、その姿を見た。
そこには、スマホを両手でしっかりと握りしめたレナが、静かに、そして冷徹にこちらの凄惨な様子を見つめていた。
彼女の本当の狙いは、最初からドリンクによる毒殺などではなかったのだ。
左神が毒殺を阻止しようとして店内で暴れ、現場を極限まで混乱させること。
その隙に、事前に電子基板とブレーキを細工しておいた車を遠隔操作して「確実な事故死」を演出すること。
そして、俺をその凄惨な殺人の現場に、最も怪しい容疑者として生々しく立ち合わせることだった。
遠くから、長久手署のパトカーのサイレンがいくつも重なって迫ってくる。
俺は、防ごうとした事件の最悪の実行犯として、完全にこの少女の掌の上で嵌められたのだ。




