暗殺のシリアルナンバー
ハゲの豊が運転する古い個人タクシーの車内には、まるで重たい泥水が足元から這い上がってくるかのような、澱んだ沈黙が流れていた。
早朝の尾張旭を走る街道沿い、窓ガラスの外にはどこまでも平坦な地方都市の景色が広がり、どんよりとした朝焼けがアスファルトを紫色に染めながら、ゆっくりと後方へ流れていく。
俺は助手席で、隣に座るレナが差し出してきたスマホの画面を、穴が開くほど見つめていた。
液晶の放つ冷たい光が、俺のくたびれたトレンチコートの襟元を白く照らしている。
『エスプレッソショット追加×4、ヘーゼルナッツシロップ変更、シナモンパウダー多め、氷抜き』
「おじさん、どうかした? さっきからずっとその画面見てる。
そんなに怖い顔されたら、わたし、何か悪いことしちゃったみたいで悲しいな」
レナが小首を傾げ、覗き込むように俺の顔を見てきた。上目遣いのその瞳は、どこまでも澄んでいて、壊れやすいガラス細工のようだ。
だが、彼女の着ている白いワンピースの裾には、昨夜藤が丘の駅前で凛がわざとぶちまけたフラペチーノの染みが、まるで乾きかけの鮮血のような赤黒さで大きく広がっていた。
「……いや。なんでもない。ただの寝不足だ。気にするな」
俺は視線を無理やり画面に戻し、脳内でスタバの社内略称を組み合わせ、解読の作業に没頭した。 『ショット追加』の英語表記は「Espresso Shot」、その頭文字コードは「E」。
『ヘーゼルナッツ』は「H」。
『シナモン』は「CN」。
そしてトッピングの数量や指定の順番に隠された数字の規則。スタバに通い詰めた人間なら誰もが知るシステムと、彼女が独自に混ぜ込んだ悪趣味な暗号。
それらをパズルのように繋ぎ合わせた瞬間、俺の脳裏でピースが最悪の形で噛み合った。
犯行時刻は「本日14時」。
場所は、長久手にある『愛・地球博記念公園』近くのロードサイド店舗。
そしてこのカスタマイズの組み合わせが指し示す次の標的は――先代社長の時代からグループの裏の泥水を一手に処理し、数々の汚職や口封じを冷徹に揉み消してきた神楽坂グループの「お抱え弁護士」である藤田だった。
彼女は、自分が次の殺人を犯す現場へ、俺をナビゲーターとして連れて行こうとしている。
それも、まるで遊園地のアトラクションにでも誘うかのような気軽さで。
その異常な冷徹さに、俺の背筋を冷たい汗が一本の線となって伝っていく。
「豊、長久手へ向かってくれ。主要道路は絶対に避けて、リニモ沿いの裏道を使ってな。少しでも目立つ動きはするなよ」
俺が低く指示を出すと、ハンドルを握る豊がルームミラー越しに視線を返してきた。
「了解だ。
だがよ、左神。名東署のパトカーが朝から色めき立ってやがるのが見えるだろ。
さっきから無線でも、藤が丘の事件の不審な男としてお前のコートの特徴が繰り返し流れてる。
お前さん、警察にとっちゃ完全にホシ(容疑者)扱いだぜ。下手に動けば一発で御用だ」
豊の目が、かつてないほど深刻な色を帯びていた。
街の「人情」を武器に、泥臭いお節介を焼きながら生きてきたこの俺が、今や街を恐怖に陥れる連続猟奇殺人の有力な容疑者だ。
これほど皮肉な役回りもない。警察の追及から逃れるだけなら簡単だが、俺の首にかかる縄がどれほどきつくなろうとも、この「暗殺のシリアルナンバー」を俺自身の手で止めるまでは、絶対に捕まるわけにはいかなかった。
「おじさん、次のスタバ、楽しみだね。あそこのお店、窓が大きくて緑がいっぱいで綺麗なんだって。パパと一緒のときは、あんな自由な場所、一度も行かせてもらえなかったから」
レナが細い指先でスマホの画面を優しくなぞる。その白く繊細な指には、昨夜の藤が丘の高架下で、喉にバニラビーンズを詰め込まれて死んでいたあの配達員の、冷たい肌の感触がまだ残っているはずだった。
それなのに、彼女の口元は、まるで親しい友人と週末のカフェの約束をしているかのように、穏やかで無垢な笑みを湛えている。
午前11時。タクシーは警察の検問の目を掠めながら、愛知青少年公園から姿を変えた長久手の平野部へと静かに潜入した。
かつて国際的な博覧会が開かれ、今は平和な緑と新興住宅街に囲まれたその街で、最悪のタイムリミットまで、あと3時間しかなかった。




