第9話 町へ行く理由
数日後、私は朝早く屋敷を出た。
南の橋に使う石材と木材の価格を確認するため、と伝えると、誰も止めなかった。
義父は「任せる」と言い、リュシアンはまだ寝室から出てこなかった。義母は慈善茶会で出す菓子の候補を三つ書いた紙を渡してきた。
「町へ行くなら、ついでに聞いてきてちょうだいね」
「承知いたしました」
「一番評判のよい店がいいわ。少しくらい高くても、皆様に喜んでいただけるものを」
用水路の修繕費が足りないことは、もう忘れたらしい。菓子の紙は鞄へ入れた。
オクタヴィアお義姉様は午後から茶会へ出かける。
王都用の馬車を使うため、朝から侍女たちへ荷物の指示を出していた。玄関前には帽子箱が三つ並び、どれを持っていくかまだ決まっていない。
屋敷の関心は、すでにそちらへ向いている。
「若奥様」
馬車へ乗る前、マルタが外套の襟を整えた。
「今日はお一人で町へ?」
「御者と護衛がいるわ」
「そういう意味ではございません」
小さな声だった。
「商会へ行くだけよ」
「はい」
「帰りは夕方になると思うわ」
「お気をつけて」
マルタはそれ以上聞かなかった。
私は馬車へ乗り、膝の上へ鞄を置く。中には南の橋の見積書、古い契約書の写し、慈善茶会の菓子店候補。
そして、帳面の表紙裏には二つの名前がある。
セドリック・ヴァレール。エドガー・モラン。
どちらか一人でも見つかればよかった。
*
領内の町までは、馬車で一時間半ほどかかる。
市場へ入る手前で、南の橋へ続く道と分かれる。今日は先に橋を見た。
補修を任せる職人と合流し、傷んだ欄干と橋脚を確認する。
「雪の前に終えられますか」
「石材が予定どおり入れば」
「価格が上がっていると聞きました」
「ええ。王都の工事が重なっておりますので」
職人は見積書の数字を指でなぞった。
「最初に出した額では難しいでしょうな」
「どれくらい上がります?」
「石だけで二割ほど」
二割。予備費がほとんど残っていない今、その差額は大きい。
「木材を変えれば抑えられますか」
「欄干だけなら。ただ、安い物を使えば数年でまた直すことになります」
「分かりました。商会で確認します」
「契約はどうします」
「今日中には決めません。価格と納期を書面にしてください」
「承知しました」
以前なら、その場で何とか金を捻り出す方法を考えていただろう。
別の修繕を延ばす――倉の補充を減らす――使用人の制服を翌年へ回す。
どこかを削り、橋を直す。だけど今日は、そうしなかった。
見積もりを取り、書面へ残す。判断するのは当主だ。
私はそのための材料をそろえるだけでいい。もともとそういうものなのだ。
*
町へ着くと、まず石材商と木材商を回り、価格と納期を聞き、書面にしてもらう。
慈善茶会の菓子についても、義母から渡された店へ立ち寄った。
一番人気だという焼き菓子の箱は、昨年使った菓子の倍近い値段だった。
「三十名分ですと、こちらになります」
店員が計算した金額を見せてくる。
「配達料は?」
「屋敷までですと、別途いただきます」
「では、見積書をください」
「ご注文ではないのですか?」
「ええ、当主の承認を得てから決めます」
店員は少し残念そうな顔をしたが、すぐに紙を用意した。これも義父へ渡すことにする。
慈善茶会にいくら使うか。用水路を諦めたあとで、どこまで贅沢を続けるのか。それを決めた者の名が残るように。
最後に向かったのは、旧市街の商会だった。
サデライン家とも取引があり、私が結婚する前から何度か訪れたことがある。
扉を開けると、帳場にいた男がすぐに立ち上がった。
「これは、ランフォード伯爵夫人」
「突然申し訳ありません、ハーマンさん」
「いえいえ。お久しぶりでございます」
商会主のハーマンは、昔より少し髪が白くなっていた。
「本日は何をお探しで?」
「南の橋に使う資材について、相談したいのです」
「最近は石も木も上がっておりますからな」
「見積もりをいくつか取りました。王都経由で仕入れた場合の価格も知りたいのです」
「では、奥へどうぞ」
応接用の小部屋へ通され、持参した見積書を並べた。
ハーマンは数字を見比べ、仕入れ先ごとの違いを説明した。
「この石材商は安いですが、納期が読めません。こちらは少々高いものの、契約どおりに運ぶでしょう」
「雪の前に届かなければ困ります」
「でしたら、安さだけで選ばない方がよろしいですな」
「私もそう思います」
一通り話を聞いたあと、古い水利契約の写しを出した。
「もう一つ、確認したいことがあります」
「何でしょう」
「この橋は、二十六年前にアルマンド侯爵家の援助を受けて架け替えています」
「ほう」
「川の管理について、侯爵家側と古い取り決めが残っています。補修前に確認した方がよいと思いまして」
ハーマンは契約書へ目を通した。
「……ああ、立会人は王都の法務官ですな」
「はい。ただ、この方はすでに亡くなっています」
「ずいぶん昔の契約ですからな」
「当時の書簡には、侯爵家の領地管理官と、公証人の名がありました」
帳面を開き、エドガー・モランの名を見せる。
「この方をご存じですか」
ハーマンの目が止まった。
「おや、モラン先生ですか?」
「ご存じなのですね」
「ええ。サデライン子爵家の契約も、いくつか扱っていたはずです」
「今も王都で仕事を?」
「さて、三年ほど前に、事務所を息子へ譲ったと聞きましたが」
胸の内で息を吐いた。亡くなったとは言わなかった。
「ご本人は引退されたのでしょうか」
「完全には。難しい案件だけ相談を受けているそうです」
「事務所の場所は変わっていませんか?」
「少々お待ちください」
ハーマンは部屋を出て、しばらくして一冊の取引先名簿を持って戻った。
「こちらです」
――王都中央区、鐘楼通り。
私が覚えていた場所と同じだった。ただし、事務所の名はモラン父子公証事務所へ変わっている。
「紹介がなければ会えませんか」
「息子さんなら予約を取れば会えるでしょう。モラン先生ご本人となると、内容次第ですな」
「古い契約について相談したいと伝えれば?」
「契約書の写しを添えれば、目を通してくださるかもしれません」
「手紙を届けてもらうことはできますか」
ハーマンが私を見た。
「ランフォード家からではなく?」
「私個人からです」
わずかな間があった。
商会主は余計なことを聞かない。ただ、何も気づかない人でもなかった。
「どうやら、橋の件だけではなさそうですな」
「今は、古い契約について相談したい。それだけです」
「承知しました」
ハーマンは声を落とした。
「……王都へ向かう荷馬車が明日の朝に出ます。うちの書簡として扱えば、三日後には事務所へ届きます」
「返事は?」
「こちらの商会宛てにしておきましょう」
「助かります」
「ただし、手紙の封はご自身で」
「もちろんです」
私は便箋を借り、その場で書いた。
――南の橋の補修にあたり、二十六年前の水利契約について確認したいことがある。
――契約の立会人と侯爵家の管理官について、現在相談できる人物を教えてほしい。
――可能であれば、モラン公証人本人へ面会したい。ランフォード伯爵家の名ではなく、ヴェロニカ個人の名で。
理由までは書かなかった。そして古い契約書の写しを添え、封をする。
「これをお願いします」
「はい、確かにお預かりします」
ハーマンは封筒を受け取り、帳簿へ何かを書きつけた。
「お返事が届きましたら、屋敷へ知らせを?」
「いいえ」
すぐに答えた。
「私が数日後にまた伺います」
「分かりました」
「それから、屋敷から問い合わせがあっても、橋の資材について相談したとだけお答えください」
「まあ、それは事実ですからな」
「ええ」
ハーマンは封筒を鍵のついた引き出しへ入れた。
「若奥様」
「何でしょう」
「昔、サデライン子爵と商談をした時、こう言われたことがあります」
父の名が出て、顔を上げた。
「娘には、『困った時ほど証文を残せ』と教えている、と」
「父が?」
「ええ。『口約束は、都合のよい者から忘れるものだ』と」
思わず吹き出しそうになる。いかにも父が言いそうなことだ。そして。
「もちろん、私もそれは覚えています」
「でしたら、余計な心配でしたな」
「いいえ」
立ち上がり、封筒の入った引き出しを見る。
「思い出させてくださって、ありがとうございます」
*
屋敷へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
玄関は空いていた。オクタヴィアお義姉様の馬車はまだ戻っていない。
「若奥様、お帰りなさいませ」
マルタが出迎えた。
「ただいま」
「橋の資材は見つかりましたか」
「見積もりをいくつか取れたわ」
鞄を渡す。
中には、石材と木材の見積書、菓子店の見積書、南の橋の契約書。
どれも、町へ出た理由を十分に示している。
「ほかにはございますか?」
マルタが小さく聞いた。
「……手紙を一通、預けてきたわ」
「侯爵家へ?」
「まだそこまでは行っていないわ」
「では」
「公証人よ」
マルタは一度だけうなずいた。
「そのお返事はいつ頃に?」
「早ければ一週間以内に」
「そうですか」
「誰にも言わないで」
「もちろんです」
そのまま自室へ向かおうとすると、その途中、義母と出会った。
「ヴェロニカ、お帰りなさい。お菓子はどうだった?」
「見積もりをいただいてきました」
「評判の店でしょう? 良い感じでしょう?」
わくわくしているのよくわかる。
「はい」
「では、そこにしましょう」
「お義父様の承認をいただいてから注文します」
「あら、また署名?」
「必要ですから」
ふう、と息を吐くと、義母は面倒そうに眉を寄せた。
「あなたに任せているのだから、いいではないの」
「でも、お義父様が当主ですので」
「あなた、本当に最近、細かいわね」
「できるだけ、間違いがないように心がけようとしております」
それだけ答え、自室へ戻ると、机の上には、ベネットからの報告書が置かれていた。
――北の村へ土嚢が届いた。
――領兵は明朝出発する。
――橋の補修については、当主の判断待ち。
――慈善茶会の予算案も作成中。
仕事は、私を通さず少しずつ進み始めている。私は椅子へ座り、帳面を開いた。
――エドガー・モラン。
その名の横へ、今日の日付を書いた。
最初の手紙は出したが、まだ出口は見えない。
けれど、扉を探すための道はできた。




