第8話 マルタは感じ取ってしまう
「ヴェロニカ!」
侍女に箱を三つ持たせ、彼女はあたふたとこちらへ歩いてくる。
「ねえ、ちょうどよかったわ。私のお部屋の衣装箪笥を増やしてほしいの!」
「衣装箪笥を?」
「新しい服が入らないのよ。客室の一つを衣装部屋にしてもいいでしょう?」
「どのお部屋ですか?」
「私の隣! 今は誰も使っていないもの。大丈夫でしょう?」
「あちらは来客用です」
「しばらくお客様なんて来ていないじゃない?」
「来月、お義母様の慈善茶会がございます」
「そんな。泊まる方はいないわ」
「急な来客に備えて空けてあるのです」
お義姉様は不満そうに唇を尖らせた。
「……それなら、大きな箪笥を買ってちょうだい」
「では、まずはお部屋に入る大きさを確認いたしましょう」
「王都の店にね、とても素敵な物があったの。彫刻が入っていて、鏡もついているのよ」
「価格は?」
「そんなの、覚えていないわ」
当然のようにお義姉様は言う。
「店から見積もりを取り寄せてください」
「いちいちそんなことをしなくても、買えばいいでしょう?」
「置く場所と予算を確認してからです」
「また予算?」
口をとがらせる。私は「はい」と素っ気なく答える。
「ねえヴェロニカ、昨日、請求書を払ってくれたのでしょう?」
「手配しました」
「なら、お金はあるのね」
側でマーサがそっと目を伏せる。
「今回の支払いで、今月の予備費はほとんど残っておりません」
「でも、箪笥は必要なのよ」
「今ある衣装を整理すれば、入るのではありませんか」
「捨てろと言うの?」
声が一段階上がる。
「着ていない物を別の場所へ移せば何とかなるでしょう」
「どこへ?」
「屋根裏の衣装箱へ」
「嫌よ! そんなところに置いて、湿気たらどうするの?」
「では、今の箪笥をお使いください」
お義姉様の顔が険しくなった。
「……あなた、昨日から意地悪ね」
「必要な確認をしているだけです」
「前なら、そんなに細かいことを言わなかったでしょう」
――前なら。
確かに、言わなかった。私が別の予算から金を移し、職人へ頼み、部屋へ収めていただろう。
義姉の機嫌を損ねるより、自分で片づける方が早かった。
「ええ、確かに以前はそうでした。ですが今後は、物を購入する前に予算を確認します」
「どうして急に?」
「領地の修繕費が不足しているからです」
「それはあなたの仕事でしょう?」
「はい」
昨夜、リュシアンに言われた言葉と同じだった。お義姉様は、自分が何を口にしたのか気づいていない。
「ですから、必要な物から順に支払います」
「私の箪笥は必要よ!」
「はい。見積もりを拝見してから判断します」
「……もういいわ! お父様にお願いするから」
「その場合は、お義父様の署名をいただいてください」
「署名……?」
「購入の承認書です」
「家族なのに、そんなものが必要だっていうの?」
露骨に眉をひそめでみせる。
「必要です」
「は! 本当に面倒な人ね!」
そう言い捨てると、お義姉様は侍女を連れ、足音を響かせて去っていった。
姿が見えなくなってから、マーサが小さく息を吐く。
「若奥様」
「何でしょ?」
「本当に、何もございませんか」
私は次の客室の扉を開けた。
「《《今は》》、仕事を片づけているだけです」
それ以上、マーサは私には聞かなかった。
*
夕方には、側仕えのマルタに衣装部屋の鍵を渡した。
「私の持ち物を一覧にしてくれるかしら?」
「若奥様のお召し物を、でございますか」
「ええ。服、宝飾品、書籍、実家から持ってきた家具。それを伯爵家から贈られた物とは分けてちょうだい」
「すべてですか」
「ええ」
「あの…… でも、季節の入れ替えには、まだ早いと思いますが」
「入れ替えではないのよ。持ち主を確認したいのです」
マルタは鍵を両手で受け取ったまま動かなかった。
「若奥様」
「何?」
「もしかして、ご実家へお戻りになるのでしょうか」
マルタはベネットやマーサより、ずっと早かった。
毎日、私の身の回りを整え、服の数も、手紙の差出人も、眠れなかった夜も知っている。
ごまかしきれる相手ではない。
「……まだ戻らないわ」
「まだ?」
「だから、今すぐ荷物をまとめる必要はないのよ」
マルタの顔から血の気が引いた。
「では、いずれは」
「声を落として」
「――申し訳ございません!」
扉の外を確かめる。廊下に人影はなかった。
「本当に、詳しいことは、まだ何も決まっていないの」
「ですが、若奥様は」
「きちんと決まってから話すわ」
「私にも、ですか?」
「ええ、あなたには、きちんと話すわ。必ず」
マルタは唇を結んだ。泣きそうな顔をしている。
「そんな顔をしないで」
「申し訳ございません」
「謝らなくていいのよ」
「あの、旦那様に、何か言われたのでございますか」
「いつもどおりよ」
――いつもどおり。
それが答えだった。マルタにも伝わったらしい。
彼女は何も聞かず、鍵を握り直した。
「……それでは一覧は、いつまでに作ればよろしいでしょう」
「急がなくていいわ。まず、実家から持ってきた物だけを確認して」
「承知いたしました」
「それから、このことは誰にも話さないで」
「はい」
「マーサにも、まだ」
「必ず」
マルタは深く頭を下げる。
その姿を見て、申し訳なさが残った。この家で、私を一人の人間として見てくれている者もいる。
何も告げずに出ていけば、彼女たちを傷つける。けれど、早く話せば危険も増える。
まだ出口は見つかっていない。
どこへ行くか。どのように離婚するか。侯爵家が話を聞いてくれるか。
何一つ決まっていない。
「ねえ、マルタ」
「はい」
「ともかく、あなたが困るようなことにはしないわ」
彼女は顔を上げた。
「それだけは約束します」
「奥様」
「今日はもう下がっていいわ」
「……おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
私はマルタが出ていったあと、机へ戻った。
今日は、ベネットへ領地の案件を渡し、マーサには屋敷の備品と使用人の記録を任せ、マルタには、私の持ち物を分けてもらうことを頼んだ。
どれも小さなことだ。家族の目には、いつもの仕事にしか映らない。
そして明日も同じように働く。書類を整え、誰かへ仕事を渡し、質問にはいつもどおり答える。
そうして、私がいなくても困らないものを、一つずつ増やしていく。
最後に残るのは、私自身だけになるように。




