第7話 私でなくても分かるように
翌日、午前の仕事を終えたあと、私はベネットを執務室へ呼んだ。
「若奥様、お呼びでしょうか」
「ええ。これから領地内の案件を、担当ごとに分けます」
机の上には、三年分の報告書を積んである。
修繕が必要な橋と水路――収穫量が落ちている村――徴税を猶予している家――職人との契約期限――冬前に補充すべき薪と穀物。
どれも私の頭には入っていた。そのせいで、何かあれば皆が私へ聞きに来る。
私も答える方が早いから、その場で指示を出してきた。それを三年続けた結果、私しか知らないことが増えすぎた。
「まず、急ぎのものをこちらへ」
机の左側へ、赤い紐で束ねた書類を置く。
「期限が一月以内の案件です。北の村の水路、南の橋、領兵の冬服、東倉の屋根。それから、来月で切れる木材商との契約」
「はい」
「青い紐は、冬までに処理するもの。白い紐は、来春以降でも構いません」
ベネットはそれぞれの束へじっと目を向けた。
「ずいぶん整理なさいましたね」
「昨日、改めて見直しました」
「徹夜なさったのですか」
「少し遅くなっただけです」
ベネットは何か言いたそうな顔をしたが、仕事の話へ戻った。
「こちらを、私が管理するのでしょうか」
「すべてではありません。各案件に担当者を決めます」
「これまでは若奥様が直接ご覧になっていましたが」
「そのやり方を変えようと思います」
書類の一番上へ、私が作った一覧表を置いた。
案件名、期限、予算、責任者、確認すべき相手、次に行うこと。
これを見れば、必要な項目は一枚で分かる。
「ベネットには全体の進み具合を見てもらいます。現場へ指示を出すのは、それぞれの担当者です」
「領地の者だけで判断させてよろしいのですか」
「判断できる範囲を決めます」
たとえば北の村の応急処置なら、土嚢の数や派遣する領兵はすでに決まっている。現場で麻袋が不足した場合、一定額までは副官の判断で買い足してよい。
橋の補修も同じだ。資材の価格が見積もりより少し上がった程度なら、いちいち屋敷へ使者を走らせる必要はない。
これまでは、誰も責任を負いたがらなかった。
――勝手に決めて叱られるくらいなら、ヴェロニカ夫人へ聞けばいい。
そんな空気ができていた。そして私も仕事を止めたくなくて、すべて引き受けてしまった。
「この金額までは担当者が決めてよい、と書いてあります」
一覧表の欄を指で示す。
「それを超える場合は、ベネットへ。さらに予算が必要なら当主へ伺いを立ててください」
「旦那様へ、ですか」
「ランフォード家の当主はお義父様ですよ」
「それは、もちろん承知しておりますが……」
ベネットの声がわずかに鈍る。義父へ判断を求めても、最後には私へ話が戻ることは、この屋敷で働く者なら誰でも知っていることだ。
「《《今後は》》、当主の承認を必ず書面に残してください」
「あの、若奥様の承認では足りませんか」
「私は当主ではありませんよ」
ベネットが黙った。
これまで、領地の支出には私が署名してきた。
義父は、任せたと言う。リュシアンは、興味を示さない。
だが、何か問題が起きれば、私の判断が悪かったことになる。
「金額の大きな支出は、お義父様の署名をいただいてください。口頭で許可された時も、その内容を書き留め、確認を取るように」
「旦那様がお嫌がりになるかもしれません」
「お嫌でも、必要なことです」
「……かしこまりました」
「支払いを決めた方が誰なのか、後から分からなくなる方が困ります」
オクタヴィアお義姉様の請求書もそうだった。
義父は払ってやれと言い、書面へ署名した。水路の修繕が延期された時、少なくとも誰の判断で金が動いたのかは残る。
私が勝手に使ったことにはできない。
「そしてこの一覧は、すぐ明日から使ってください」
「若奥様が確認なさいますか?」
「最初の一週間は見ます。その後は、週に一度まとめて報告を」
「週に一度でよろしいのですか?」
「急ぎのものだけ、その都度知らせてください」
ベネットは一覧表を手に取り、しばらく眺めていた。
「……私に務まるでしょうか」
「三年間、私の指示を一番近くで聞いていたのはベネットです」
「しかし私は、奥様ほど領地のことを存じません」
「知らないことは、書類で確かめればいいのです」
「書類にないこともございます」
「それも、これから残します」
私は別の帳面を差し出した。表紙には、村名を並べてある。
「こちらは各村の記録です。村長、主な作物、困っていること、次に確認する時期。分かる範囲で書きました」
「奥様が…… これをすべて?!」
「まだ途中です。この先はあなたにも手伝ってもらいます」
彼は帳面を開き、最初の頁を読んだ。
北の村――村長の名前――世帯数――主な作物――水路の傷み。
雪解け前に確認すべき場所――昨年、税を猶予した三軒の事情。
「誰かが村へ行く前に、ここを読めば最低限のことは分かります」
「……若奥様へ尋ねれば済むことだと思っておりました」
「それでは困るのです」
ベネットが顔を上げた。
「若奥様が、お忙しいからでしょうか」
「それ《《も》》あります」
「どこか長くお出かけになるご予定でも?」
彼の問いかけは慎重だ。私は帳面の残りを揃えた。
「今のところ、長く屋敷を空ける予定はありません」
嘘ではない。予定はまだ決まっていない。
「ただ、いつまでも私一人がすべてを覚えている状態にはできません」
「それは、そうですが」
「誰かが病気になっても、領地の仕事は止められないでしょう」
「奥様、お具合が悪いのですか」
「元気です」
ベネットの表情が少し緩んだ。
「でしたら、安心いたしました」
彼も、私が倒れる可能性を考えたのだろう。
この家の者は、私がいなくなるとは思わない。
病気なら心配する。外出なら帰りを待つ。
けれど、自分の意志で出ていく姿は想像できない。
「午後から、担当者を一人ずつ呼んでください」
「どなたからにいたしましょう」
「領兵隊長の副官から。北の村の件を渡します。その後、倉庫番と会計係を」
「承知いたしました」
ベネットは書類を抱え、扉へ向かった。
「ベネット」
「はい」
「今まで、あなたへ任せる範囲が狭すぎました」
彼ははっとして振り返る。私は続けた。
「申し訳ありません」
「わ、若奥様…… そのような」
「今までずっと、私が自分でやってしまった方が早いと思っていたのです。けれど、それでは皆が困ります」
「いいえ、いいえ、奥様がお一人で抱えてくださったから、この三年を乗り切れたのです」
「でも、乗り切ったあとも、同じやり方を続けてしまいました」
ベネットはしばらく私を見てから、深く頭を下げた。
「お任せください」
「お願いします」
扉が閉まったあと、机の上へ残った書類を見る。一つ、渡した。
明日はもう一つ。
そうして少しずつ、私がいなければ分からないことを減らしていく。
*
昼食後、家政婦長のマーサと屋敷内を回った。
「まず、客室から始めましょう」
「あの、若奥様…… 冬支度の確認でしょうか」
「それもあります。備品の記録を整えるのです」
「備品…… でございますか?」
「家具、絵画、銀器、寝具。どこに何があるか、台帳と合っているか確認してください」
マーサは困った顔をした。
「……台帳はございますが、ずいぶん古いままです」
「ええ、知っています」
客室の一つへ入り、壁際の小机を示す。
「これは二年前に買い替えましたね」
「はい。以前の物は脚が割れましたので」
「台帳には古い机の記載が残っています」
「も、申し訳ございません」
「あなたを責めているのではありません。ともかく、今月中に直しましょう」
マーサと一緒に、部屋の中を一つずつ確認する。
ベッド――衣装箪笥――鏡台――燭台――絵画――寝具の枚数――カーテンの傷み。
書記を連れてきて、その場で記録させた。
「今後は、新しく買った物と処分した物を、その日のうちに書き加えてください」
「若奥様へご報告してからでよろしいでしょうか」
「いいえ、マーサの判断で構いません」
「高価な物もございますが……」
「銀器や絵画を動かす時は、ベネットと二人で確認してください。私の許可は必要ありません」
マーサの手が止まった。
「若奥様の許可が、いらないのでございますか」
「もともと、屋敷の備品管理は、家政婦長の仕事でしょう」
「で、ですがこれまでは若奥様が」
「ですから、これからはマーサが管理してください」
「……何か、ございましたか」
ベネットと同じ質問だ。そしてこちらは、もっと直接的だった。
「どうしてそう思うのです?」
「いえ、奥様が、急にいろいろと私どもへ任せ始めましたので」
「急ではありません。前から変えなければと思っていました」
「ですが……」
マーサは言葉を選びながら、私の顔を見た。
「若奥様がここへおいでになった頃も、同じようなことがございました」
「私が来た頃?」
「はい。前の家政婦長が辞める前、帳簿や鍵の場所を一つずつ私へ教えました。あの時と、少し似ております」
さすがに長く屋敷を預かっているだけのことはある。
私は窓辺へ近づき、カーテンの端を確かめた。生地が薄くなり、日差しの当たる部分だけ色が抜けている。
「マーサ」
「はい」
「今すぐ何かが変わるわけではありません」
彼女は黙って待った。
「けれど、私がいなければ屋敷が回らない状態というものは、終わらせたいのです」
「奥様が、いなくなるとおっしゃるのですか」
「そうは言っていません」
「では、なぜ」
「誰か一人に頼り切るのは危険だからです」
マーサは納得していない。それでも、これ以上は尋ねなかった。
「……分かりました」
「では、まずは客室と銀器庫からお願いします」
「かしこまりました」
「それから、使用人の雇用記録も確認したいのです」
「雇用記録まで?」
「給金、勤続年数、契約内容。家族が領地内にいる者は、その住所も」
「あの、何のためでしょう」
「何かあった時、本人へ連絡が取れるように」
私は平然と答えた。
使用人たちの待遇を守るには、誰がどの条件で働いているか確認しておく必要がある。侯爵へ相談する時にも、屋敷で働く者の人数と契約は必要になるだろう。
当主が替わる。屋敷が侯爵家の管理下へ入る。
そんな事態になれば、最初に不安になるのは使用人たちだ。
――ヴェロニカが出ていったせいで職を失った。
そう思わせたくなかった。
「……解雇なさるおつもりではございませんね」
マーサが念を押した。
「ありません。それは保証いたします」
「でしたら、集めておきます」
「お願いします」
次の部屋へ向かおうとすると、廊下の先からオクタヴィアお義姉様の声が聞こえた。




